2005年01月14日

忠と孝とコンセント

music You Get What You Give / The New Radicals

 僕はここで公言したことはないが、基本的には武士道という思想と行動が好きだし、自ら体現したいと思っている。
 公言したことがないとはいえ、このblogにある「武士道」というカテゴリの存在自体が、ある程度そうした志向を語っているかもしれないが、肝心のそのカテゴリで、ちゃんと武士道なるものを語ったことがない。(期待してカテゴリを見に行ってくれた人には、がっかりさせてしまっているかもしれないが ^^;)

 なぜというと、このblogを始めた当時の時点で、既に自分なりの思索が、ある程度一段落して、新たに語る動機をもつ機会がたまたま今日までなかったということ(というか、本日もないが)。かつ、ここ最近急に武士道ということが巷を賑わせはじめ、そうした流行の浅く軽薄な感覚と同一視されたくなかったということもあるかもしれない。^^;)

 が、いずれ折を見て、個人的に標榜するところの武士道観についてエントリしたいとは思っている。(なにしろ大部にわたることが予想されるので、なかなか… ^^;)

 ただ、少なくとも僕の標榜するのは、あくまでも現代なりの武士道であり、あるいはそれを構築することであって、武士道なるものが、武士の草創期、兵の道などとして語られはじめたころから、最終的には幕末に至るまで、その時代時代に様相を変えたと同じく、過去のいずれかの時代の武士道を単純に掲げようなどという気は僕にはない。むろんエッセンスはあるだろうにせよ。
 構築というと作為的で語弊があるが、より正確には、自然に周囲、社会に余慶を与え得るような倫理観、価値観を持った集団、いわば現代の武士団(と後から見て考え得るような集団)を率いて仕事をするのが、僕の夢だ。^^)

 いずれにせよ、そのうち、エントリしたいと思う。
 (興味を持ってくれる人は、ぜひもうしばらくお待ちを ^^;)

 忠義、孝行ということについては、かれこれ20年近く考え込んできたが(気味の悪い子どもだった ^^;)、数年前にふと思いついた思いつき、それを少し紹介してみたい。

 忠孝は特に武士の時代後段において徳目として非常に重視されたものであるし、武士道という倫理観の他の徳目と同様、日本社会全体に流れ出し、影響を与え、日本人全体の倫理観にも近づいたものだ。

 そしてそれは儒教思想を借りたものであるとの論も一般的にあるが、僕個人は、古事記や日本書紀等に読み取れるように、かつ、日本人というものは本当に自分の肌に合うものしか結局は外来物を取り入れはしない、もしくは勝手に改変して取り入れるという性からしても、儒教は日本人の自然な感覚を裏付け、理論武装したに過ぎないとの論のほうを支持している。
 この辺りの是非は今日の主題ではないのでこれ以上立ち入らない。

 その淵源が何であるにせよ、ともかくも、忠孝ということに対する重要性はどのようなメンタリティからくるのか。(大陸における儒教の忠孝というものについても同様)
 儒教はともかく、こと我が国太古の自然発露的な心情感覚においては、後にさまざまに分析されるような、理屈っぽいものではあるまい。

 以下、ここからが個人的な全くの架空の仮説に過ぎないが、、、

 忠孝はいずれも、なにがしかの本源、それは天下とでもいうべきか…へのつながりを示すものではないか、ある日、僕はそんなことを思いついた。

 天下、大本、本源に自らがつながっていくにおいて、ひとつは血脈ということがある。ここは厳密に血脈とせず、養子も含めて「家」でもいい。
 これは、僕たちが僕たちの大本につながっていく実に確実な縦糸だ。
 なにしろ、親から親へとたどっていけば、間違いなく絶対に、自分の生命の大本にたどりつくのだから。^^)
 (ちなみに、天皇家という制度がこの、大本への不断の縦糸を象徴するシンボルだとすると(当然そうだろうと僕は思っているが)、かつて天皇家への忠とは限りなく孝の国家モデルに近づくものだったかもしれない)

 この、生命のつながりでもって本源、大本、天下につながっていく道筋が「孝」という思想ではないのか、と。思想というよりは、メンタリティというべきか。
 なにしろ、日本の古人の感覚とは、誰もが親をたどれば神まで行き着くというものなのだから。
 (源平橘藤でない故に征夷大将軍への任官がならずといわれ、秀吉が詠んだとか詠まなかったとか…^^;)「われもまた 高皇産日(たかみむすび)の 末なれば 間のことは とにもかくにも」


 さて、では「忠」は?
 それは、業(仕事、mission)を通じて天下につながっていく縦糸だろうか。
 天下の業、僕の好きな言葉でいえば、修理固成の業を通じて。
 つまり、殿様というものは、(理想としては本来)領民を保護し、領内の政道を行うことを使命としている(しなくてはならない)。家臣団は、その業に参加し、そこへつながっていくことで、殿を通じて天下につながっていくことができるのではないか。
 (余談だが、この場合、主君が正しく天下につながっていないのならば、家臣による主君押し込め、廃君という慣行も納得できるともいえる)

 今風にいえば、一人一人個々が、会社の仕事を通じて社会に貢献しているようなものか。

 つまり、天下につながっていくに、血脈という糸と、仕事という糸があると考えることもできるなあ…ということを僕はふと思ったのだ。


 僕は、僕の仕事に協力してくれることによって、その人たちすべてが夢を叶えることができるような集団を夢想している。多くの人が、自分の夢のために集まり、互いに必要な都度必要なプロジェクトチームを構成してさまざまな仕事に力を貸し合いながら、結果的に皆の夢がかなうような、健全な利己心によって集い、にもかかわらず結果的に相互の利他となるような。
 僕は、そんな集団の旗振り役になりたいと思っている。器になりたいと思っている。

 そこに集まる夢は、政治であろうと経済、起業であろうと、学問であろうと、詩人でも作家でも、ミュージシャンでも、なんでも良いのだ。それぞれの持てるものを、必要に応じて出し合いつつ互いに前進する。そこでは、いったい自分の夢や野望のために働いているのか、組織の目的や他人の夢のために働いているのかがもはや弁別できなくなるような。
 もちろん、僕もそこでは自分の夢と野望を追求する。その夢と野望が、その他すべての人の夢を収め得るだけの大きさを持たねばならない。
 (この集団の組織構想については、近くまたエントリする予定)

 なぜこんな話をするかというと、上記のような、業を通じて天下につながる道という考えを思いついたとき、僕は皆にとっての、天下へのコンセントになりたいなと思ったのだ。(もちろん、だから忠義を要求するなんてつもりの意味合いではない ^^;)

 今日はもはや、「孝」でつながっていくというメンタリティを保ちやすい時代ではない。
 一方で、政治家であれ企業であれ、業を通じてつながろうとしても、そのトップが本当にちゃんと天下につながっているのか(少なくともそのつもりがあるのか)も怪しい時代だ。
 かといって誰もが自分自身で直接天下に対するということも難しいに違いない。

 そこで、僕は、良きコンセントになりたいのだ。
 オレを通して天下を見よ、と豪語できるほどの人間になりたいものだ…などと切に願いつつ研鑽に励むのだが、まだまだ未熟、道のりは遠そうだ ^^;)
 傲慢な願いであるのは承知の上だが、よき心根から出たものであれば天もこれを憎むまい、と高をくくって精進したい。^^)


posted by Shu UETA at 21:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 武士道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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