2005年01月14日

身体フロンティア(前)

music Happy? / Public Image Ltd.

 僕の政策構想のひとつに、「身体フロンティア構想」というものがあるが、そこで構想される「身体」というものについて少し書いてみようと思う。

 昔から(むしろ昔にはよく)「健全な精神は健全な肉体に宿る」などということが言われてきた。あるいは「健全な魂は」、と。
 実は僕は子どもの頃からどうもこの言葉が好きになれなかった。なぜなのか、理由は不明確なまま、どうも好きになれない感じだった。そしてもちろん、今も好きにはなれない。何か引っかかるのだ。


 後付けかもしれないが、その理由について、自分で考えられる可能性のいくつかとしては、まず(屁理屈かもしれないが)障碍者には健全な精神は宿らないのか、ということ(これは子どもの頃によく思った ^^;)
 (※僕は当用漢字なる愚劣な制度における「障碍→障害」の無理な書き換えを憎んでいる。 --;)
 むろんこうした言いがかりをつけると、健全な肉体という表現は必ずしも障碍を不健全と考えるものではない、というだろう。しかし、健康と健全の言葉のニュアンスの差を考えるならば、障碍とは、健康であると言い得ることはあっても健全とは言い難いはずだが。

 では、病気等は?喘息やアトピーのような軽い持病から、果てはハンセン氏病でも癌でも…こちらについては明らかに「健康」とも言えまい。しかし「健全」な肉体ではあり得るというならば、もはや健全などという言葉の意味がわからない。
 そして、するとこうした人々は健全な精神を持たない人たちなのか。

 限りなく難癖に近いのは承知だが ^^;)、しかし子ども心にも、妙にとってつけたような爽やかな表情と笑顔でそういうことを言う人たちが好きになれなかった。

 そんな言葉をそうそう耳にするか、と思う人もいるかもしれないが、僕が子どもの頃というと、かの笹川良一氏の日本船舶振興会(現日本財団)によるテレビCMの全盛時代だったから、いやでも何度も耳にしていたわけだ。(「一日ぃ〜一善っ」のCMを覚えている人も多いだろう。あのシリーズで「健全な精神は…」も叫ばれていたのだった。)
 ちなみに、この言葉はそもそもは西洋の諺からきているものと思う。A sound mind in a sound body、といったところか。

 もうひとつは、(こちらはさらに僕の歪な感覚である可能性を否定しないが)「健全な精神は健全な肉体に」などと言うひとたちが賛美しそうな、スポーツにおける爽やかな汗だの、美しさだのといった感覚に、僕がちょっとした嫌悪感を持っていることによるのかもしれないとも思う。

 僕はけっしてスポーツ嫌いだったわけではないし、例のCMを日々見ていた小学生の頃も地域のサッカークラブにも入っていた普通の「健全な ^^;)」少年だったが、しかし、スポーツの爽やかさ的な感覚に対する生理的な嫌悪感があった。

 高校野球に対する大人たちの「球児らしさ」なんて感覚も大嫌いだし、部活におけるいわゆる体育会的ノリや汗臭さも鬱陶しさ以外の何ものでもない。

 僕が武術、剣術を稽古しているということを知る人は(かつ特に実際に僕に逢ったことのない人は)、上記のようなことを僕が言うのを意外に思うかもしれないが、僕の大好きな幕末の天才剣士、伊庭八郎(心形刀流)ならきっと僕に共感してくれるに違いない(推測だけど)。

 (伊庭八郎についてはいつか小説を書きたいと思っている。彼は心形刀流宗家の跡継ぎとして生まれたが、かなりの年齢になるまで剣術稽古を嫌い、部屋にこもっては歴史書や文学を読み耽る子どもだった。ある日ふと目覚めたように稽古をはじめ、ものの数年で天才の名をほしいままにする剣士となった。維新においては時代の趨勢を認めつつ幕軍として転戦、箱根の戦いで片腕を失い、片腕の天才剣士として有名。僭越を覚悟で言うなら、史上あらゆる剣術家でもっとも僕と感覚、キャラが近い人物だと思っている。^^)


 と、例により前置きが長くなったが ^^;)、だがしかし、僕は「楽な心は楽な身体に宿る」とは思うのだ。
 「自由な精神は自由な身体に」とも、「自由な発想は自由な身体に」、「柔軟な精神は柔軟な身体に」とも。

 僕が「身体フロンティア」といって開拓を目指したいと思う「身体」の骨子とは、こうしたものなのだ。


 以前にもいずれかの記事で少し触れたことがあるように思うが、(僕の場合はたまたま武術を通して)身体操作を磨いていくと、動きの次元が変わってくるだけではなく、気持ちや思考、発想への影響を実に痛感する。

 歩き方しかり、立ち方、手や腕の使い方しかり。
 古武術において目指す身体操作とは、操作というとおり、筋肉的な鍛錬とは全く無縁な次元のものであり、むしろいかに筋肉なんぞを使わなくて済む操作をするかということであって、それは「楽な身体」というものを実現する。
 故に達人ともいう者は、ただ立っていても、歩いていても、手で何かをするにしても、力みということがなく、見事に脱力されているものだ。

 かの宮本武蔵の術理、思想は有り難いことに「五輪書」にまとめられて残っているが、それを読めば、武蔵の境地というもの、術理というものが、今日に剣豪といって人々がイメージするようなガチガチの身体、腕の筋肉や太い首、厚い胸板、ギラギラした目…といったものからどれほど遠いかがよくわかる。
 今に残る彼の自画像、それは両刀を抜いているが、その彼のたたずまいを見ても、そのゆらっとした雰囲気、脱力の感じが印象的だ。これは夙に高岡秀夫氏のしばしば指摘するところだが、何の解説なくとも、絵を見れば誰しもが感じとれることだ。

 むろん、これらのことは武術に限らず、日本では踊り等においても武術と同じようなことが目指されてきた。柳生心陰流と能の金春流の交流、秘伝の交換に有名なように、歴史的な両者の関わり合いをみれば明らかだ。

 冒頭の「健全な精神は健全な肉体に」とは、「肉体」という言葉を使っているところがひとつのポイントだ。(おそらくは僕の本能的な違和感のひとつでもある)
 肉体などという言葉の発想はきわめて現代的なものだと思う。スポーツにおいて「鍛える」といって最もイメージされるのは、筋肉の鍛錬である。
 ところが、身体操作、とは身体の「強化」ではなく「操作」を言うのであって、たまたま日本においては伝統的にこちらが重視されてきた。筋肉を云々するのではなく、骨の使い方を考えるというに近い。そこで「コツ(骨)」という言葉があることは示唆に富む。


 こうしたアプローチでは、身体を、筋肉で使うのではなく骨で使うイメージということがよく言われるが、そしてこれは一般に非常にイメージしにくいことと思うが、筋肉のパワーではなく、骨であり骨格でありを、物理的合理性をもって使う法を追求する。
 たとえば、テコの原理を想像してもらえばよい。ある動作をするにおいて、体内にテコをつくることで、少ない力で大きな力を楽に出力することができる、といったイメージだ。

 実演できないので文章では伝え難いが、例えば重い木刀を振るのには、ほとんど筋力を使わずに楽に振る方法というものがある。僕のいま到達している範囲でいうと、これには膝の抜き、背骨の微伸展によるΔt無重力の創造、肩胛骨〜肩におけるクランク操作などがあげられる。
 力で振るのではなく、それでいて力で振るより威力もある。いかに重い木刀、刀であっても、百回や二百回振っても、まるでどこも疲れない。
 術というのはそうしたものだ。

 こうした武術や踊りにおけるアプローチで重視される要素は、重力の活用、身体各部の脱力と各部の細分化意識、動きの柔らかさなどであるが、こうしたことが身に付いてくると、先に言ったように、気持ちや思考、発想にも影響が出てくる。これは自分で感じ得るほどのものだ。

 病気で調子の悪いときとそうでないとき、歯が痛いときとそうでないとき、といった極端な例を思い浮かべれば、身体の快活さが気持ちや頭脳の明晰に大きな影響力をもつだろうことも容易に想像できる。

 そして、そういう身体操作を追求する方法論として、幸運にも日本には武術や踊りの伝統があり、そこからさまざまに学ぶことができるというだけであって、僕は、なにも武術や踊りを皆でやろうと言うわけではない。
 あくまで例として、また、そこからヒントは得つつ、身体操作を考えていきたい、普及させたいということだ。

 たとえば、武術でなくとも、スポーツにおいても、イチロー選手のプレイを見れば、それがただ筋肉鍛錬によるものでないのは誰しも感じるところだろう。ヒッティングについては単に運動神経と片づける向きがあるかもしれないが、守備における送球力は、あの華奢な身体で、「神経」の問題では済まされまい。
 また、プレイに限らず彼のたたずまい、歩く姿を見て、常人と違う何か、それは全身のリラックスの度合いであり、やわらかさであり、それらを感じない人はいないだろう。
 肩胛骨がやわらかく動く様子も彼には顕著だ。

 格闘技では特に裸の身体を観察しやすいが、強豪選手には身体のゆるんでいない人はいない。ノゲイラを見ても、彼が筋肉で戦っているのでないことは明白だろう。あのしなやかさ、足の細さ、そこにこそ、柔道ではなく柔術を思わされる。
 筋肉隆々の選手であっても、強い選手であれば、その筋肉はやわらかく揺れている。

 和太鼓でも、名手の背中では肩胛骨が感動的にやわらかく動いている。

 和太鼓といったが、高名なピアニストやオーケストラの楽員が、かの甲野善紀氏を訪ね、身体操作を学ぶことで音質まで変わったと感動したという例も数多い。

 僕は、こうした「身体操作」というものを、日本人皆の共有するものとしたいのだ。

後編に続く)


posted by Shu UETA at 11:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 天下-教育・科学・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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