
7日から札幌市で開かれていた日教組の教研集会が、3日間の日程を終え閉幕したとのこと。
日教組の教研集会が閉幕 学力の二極化を懸念(産経<共同))
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この記事を見る限りでは、日教組の従来の発言と差はなく、「相変わらず」という感を受けるが、他の記事にも目を通してみると、実際には、かなり変化が見られたようだ。
(変化とはいっても、教員たちの意識の変化であって、日教組の執行部、幹部側は必死で従来の方針を貫こうとしており、焦りも見え隠れだが ^^;)
学力二極化を63%が実感(中日新聞)
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このアンケートによると、なんと60%もが、ゆとり教育の見直しを求めている。実に意外だ。ある意味、大きな変化だと思う。
そのような流れは他にも、土曜授業の復活論や学力テスト容認論の増加にも見られるようだ。こちらには、執行部側が焦りを見せてもいる。
土曜授業復活に報告者2割賛成 日教組教研集会(朝日)
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また、学力テストに関しては、
文部科学省は、学力低下に歯止めをかけるために全国学力テストを実施する方針を打ち出しているが、森越委員長は「競争させないから意欲が高まらないとばかりに声高に叫んでいるが、もっと競争を激しくしたら学習意欲の減退はさらに深刻になる」と強調(朝日記事より)
全体集会で、森越康雄委員長は教育基本法改正にあらためて反対を表明。文科省が推し進めようとしている全国学力テストなどについて、「子どもが学ぶことの充実感と学習意欲を高め、自己実現に向かうためのひとつの資料であり、誰かと競争させて意欲を高める道具にするためのものではない」と批判した(毎日記事より)
同委員長は、あわせて教育基本法についても、「子どもの幸せと国際連帯を高らかに宣言したもの」と改正の動きをけん制したとのこと。(日経より)
いまだに「書記長」などという職制も置いているような組織に「国際連帯」などと言われると気分が良くはないが ^^;)、まあ現在の自民党の方針を見れば、日教組としては思想的に反対せざるを得まいし、それを教員たちに徹底しておきたくもあるだろう。しかし、ゆっくりと、教員たちの意識の変化も今後顕著になっていくのではないだろうか。
その他、興味深かったものとしては、
同集会のシンポジウムにおける発言として、
2つの国際学力調査で日本の子どもの学力が低下傾向にあることが分かったが、福田誠治都留文科大教授は「依然高い水準にあり、大騒ぎする必要はない。むしろ、子どもの学習意欲が低く、家庭での勉強時間も短いとのデータもあるのに、日本の学校は高い成果を挙げているといえる」と述べた。
これに対し志水宏吉大阪大教授は「学力のばらつきの小ささが従来の日本の特徴だったが、下位層が増えてきている」と反論(河北新報より)
前後の状況が不明で、必ずしも発言者の意図を測り難いものの、ここに見る範囲では、福田氏の見解では何の建設性もなかろうと思う。
また、(地域にもよるだろうが)現在の教育現場の状況として驚いたのは、同集会で発表されたという次のような話だ。
北海道の公立中で国語を教える加藤友子教諭は特別分科会のシンポジウムにパネリストとして参加し、「学級崩壊」状態だった1年生クラスを受け持った際の体験を紹介した。生徒の中には平仮名も十分に書けない子や、作文の名前を書くのさえ、「面倒くせえ」という子がおり、授業は絵本を読むことから始めた。(読売記事より)
この話が小学校ではなく中学校であるということに、ちょっとした衝撃を受けた。
なお、興味を持って見に行ってみたが、現時点ではまだ日教組のHPには、この教研集会の報告はupされていない(それもそうか ^^;)。いずれまた報告の詳細を読んでみたいと思う。
今回は同集会に関する記事の紹介が主で、僕自身の考え方としては従来書いてきたとおりなので重ねての記述は避けるが、日教組の結束力も今後緩んでいくのではないかなという感触を受けた。
もとより昨今はそうしたことが聞こえてきてはいたが。特に若い教員には、昔ながらの日教組の活動から距離を置く者も多いとも聞く。
また、学力の両極化ということについて、個人的な感覚としては、中間層がいなくなったというよりも、下位層と中間層の距離が大きくなり、上位層と中間層の距離が縮まったのでは、というふうにも思う。つまり(下位層)と(中位及び上位層)の二分化的な印象。
ただし、集会参加者アンケートの回答に見える「勉強に対する親の考え方が二極化している」という見方には、考えさせられる。たしかに、そうしたことは顕在化しつつあるようにも思う。
冒頭の産経記事に見える、数学教育分科会での「子どもが内的欲求に基づいて獲得した学力でなければ、計算の速さを競っても意味がない。受験が終わればはく離してしまう」との発言については、これも前後の状況不明だが、「ゆとり教育」的な思想の悪い面が現れていると僕には思える。
数学においては、計算力というものがすべての思考の基礎力(高度な数学研究においても「数カン」は必要)であるとは知れたことで、かつこの計算力というものは純粋に訓練に属する分野であり、読み書きと同じく、こうした基盤的能力については、躾同様、理屈より訓練にならざるを得ない。こうした基盤的能力の涵養と、その基盤の上で行われる思考能力等の涵養との手法を同列に論じようとするところに問題があるのではないかと、常々思う。躾と学問のアプローチが別であるのとも同様だろう。
漢字の書き取りや計算練習、木刀やバットの素振りといったものに、「子どもの内的欲求」などを待つ姿勢が果たして教育といえるだろうか。そうした姿勢が、平仮名も書けない中学1年生を生むのでは、などと言いたくもなってしまう ^^;)
しかしいずれにせよ、それが自民党であれ日教組であれアプローチは異なれども、彼らをはじめ、問題意識をもって教育を考えていこうとしている、現在の社会全体の意識と姿勢は良いことだと思っている。
それこそ衆議を尽くし、よりよい方向へ向かっていきたいものだ。
【関連する記事】
昔の帝大系(旧一期校)の入試はほとんど記述式であり、知識量だけでなく、論理構成力が問われる内容でした。
小中高レベルのの学力テストでいい成績でも、本質的な思考センスの無い人間は合格できない壁があって、それまでの学校教育がいかに思考センスの育成とかけ離れているか実感しました。
皮肉なのは、学校教員になる人のレベルは、旧二期校以下で、そうした思考センスの壁をこえなくともいいレベルだったということです。本人が思考センスのないのに、子供達に本質的探究心を伝えることができる訳ありません。
りっぱなお題目はともかく、遊びを増やすことで結果的に、バカでも教えられる知識と計算能力すら満足に伝達できなくなったのでしょう。
文部省も、”教員になる人の思考能力のレベルは、かなり低い”という認識でカリキュラムを組んだら、目標と結果のギャップをもっと埋めれたのではないでしょうか?
とくに小学校教員のレべルは卒倒するくらい低いんじゃないか?と、あるブログをみて痛感する今日この頃です。
新年早々過激な書き込みですが、今年もよろしくお願いします。
こちらこそ、今年もよろしくお願いいたします。
たしかに多少過激な見解かもしれませんね… ^^;) が、実際には多くの人が抱いている感慨だろうと思います、皆言わないだけで。
特に子どもを持つ人々からは、彼らが子どもをあずけている学校の教員の程度について、しばしば憤激の弁を耳にしますし。
以前どこかで書いて、教員の方からやんわりと反論されたことがあるのですが、どうも自分の学生時代に周囲で教員になる人を見ると、教員にならない学生に比べ能力的にやや低い傾向が目について… ^^;)、僕自身は、教員の待遇(経済的であれ社会的地位であれ)をある程度向上させねば、マクロ的にはそうならざるを得ないだろうと思っています。
(もっとも、僕の狭い経験範囲であって、教員の方々すべてを一括りにするつもりはありませんが)
そこで、教師という仕事の魅力化をどう実現していくか、というのが僕にとって目下の研究対象のひとつです。