古くからこのblogを見てくれている方は、早期の英語教育ということについて僕があまり感心していないことは既からご存知だろうが、
たまたま、目下開催されている教研集会でのニュース記事を二つほど見かけたので、少し雑感を。
教研集会:苦難強いられた日系米国人の英語授業を報告(毎日)
小学校の英語教育、教研集会でも賛否両論(読売)
まず最初の方の記事から。
中村教諭は、太平洋戦争勃発後、苦難を強いられた日系米国人の思いを考えた英語授業を報告。 授業ではまず日系人が強制的に収容されたキャンプの写真を見せ、どんな状況なのかを考えさせる。続いて、日系2世の男性と、開戦を知らせにきた友人の会話を英語で音読させた後、2世男性の最後のセリフと、その時の気持ちを生徒に考えさせた。 生徒の答えは「日本は僕の国ではない」「戦争には行きたくない」などさまざま、衝撃を受けた生徒や、人権学習を英語で学んだと述べた生徒もいたとのこと。 中村教諭は「開戦時の日系アメリカ人の心中を通して、戦争とそこに生きる人々の思いを考え、ひいては在日韓国・朝鮮人や9・11後のアラブ系外国人の思いを想像して平和や人権を考える機会にしたかった」と話した。 |
正直、もっていこうとする方向性自体が僕とはあまり肌合いがよくはないようだが… ^^;)、しかし今日のところは、そういう話ではなくて、
たとえばまさに僕(あるいは社会として)そうあるべきというドンピシャの方向性であったとしても、英語という教科(それもごく基礎段階だ)の範疇において、そうした思想的教育を恣意的に行うことというのは果たしていかがなものか、そこのところを僕は考えている。
以前にも触れたことがあったかもしれないが、僕が小学校の後半を過ごした芦屋市というところは、(少なくとも当時、少なくとも僕の小学校では)すさまじい日教組的教育が徹底して行われていたのだけれど、
たとえば国語の時間には、国語の教科書などほとんど使わないのだ。
では何を使っているか。
教師がコピーしてホッチキスでとめて製本した、お手製教材を使うのだ。
内容は、とにかく戦争、戦争、戦争。
戦時中の日本の非道い行い、戦時中の気の毒な話、そうした話のホッチキス本を使って、国語の授業は行われる。
で、重ねて言うが、今日僕が疑問を呈しているのは、それがそうしたテーマであるからではない。つまり、あくまで一例として、たとえばある程度の愛国心涵養が教育において必要であろうと仮に僕が考えているとしよう、それでもそうしたことを、上記の僕の小学校の例のような方法で行うことや、あるいは英語の科目教育において(これもお手製教材というところがミソだね ^^;) それを行うことには、やはり疑問を感じる。
もちろん、国語や英語は文章を題材にする以上、いかに教科学習とは言っても、そこで扱われる文章に一定の教育的配慮がなされ、ある程度、いわゆる教科的知識、教育を越えて何がしか薫育の資とするというのも理解はできる。それが理解できるが故に、僕も「疑問を感じる」という程度の言いになっているのだが…
しかしそれでも、今回報道記事にあるような、中学校の英語教育において行われる上記のような教育は、どうも教師の自己満足のように感じられてならない、僕には。
僕自身も、アルバイトとはいえ、塾講師として中学英語・高校英語とも教育の一端に任じたこともあるが、学校教育の英語の教育内容(履修事項)と授業時間数とを考えたとき、上記左様なことをしている暇(と敢えて言わせてもらうが)が果たしてあるのか、そんな時間があるならば、まず教科として必要な知識をしっかりと身につけさせることが先決ではないのか、とも思う。
ゆとり教育云々については今日は立ち入らないが、その問題においてもしばしば言ってきたように、教育(あるいは逆からいえば学習)ということは、まず、後々により高度な学習なり思索なりを行う基礎をしっかりつくることが大切だ。
英語でいえばそれは語彙であり、文法・構文知識だろう(まああるいは発音の基礎等もあるかもしれないが)。
大戦中の日系人捕虜収容所の舞台を設定し、被害者のセリフを、中学生のごく低レベルなくだらない英語で埋めさせてみたところで、それは英語教科の名を借りた、全く別の教育だろう。
それは、ハリウッド製の戦意高揚あるいは愛国心高揚的なストーリーを題材にとって、国を思うようなセリフを考えさせるにしたって同じくバカげたことだ。僕が言っているのは、テーマの左右や鷹鳩の問題ではない。(もっとも、大ヒット映画のシーンを題材にして、生徒の強い興味関心を喚起するということなら意義はあるかもだが)
(それに、おそらくは、「わからなければ、じゃあ、日本語で言ってごらん」などという具合になっているに違いないのだ。彼英語教師が教えたいのは英語ではない何かの方なのだ。邪推かな?)
さて、この流れに乗って、で、もう一本の報道記事から。
今度は小学校での英語という点に注意。
富山県の表教諭は、織田信長と豊臣秀吉らを例に、「どちらが偉いと思うか」と6年生の児童たちに英語で討論させた実践例を報告。表教諭は「慣れない英語で自分の考えを相手に伝えようとする努力は、コミュニケーション能力を高める」と肯定的だ。 |
なんという論題だ、、、というところはこの際度外視しよう。(まあ何であれ討論、話し合いは可能だ)
が、
「慣れない英語で考えを伝えようとする努力が、コミュニケーション能力を高める」と言う。
そんなことがあるとすれば、それは、慣れない英語で旅行や買い物をする際の努力において、身振り手振りといったジェスチャーを含めた非言語的コミュニケーション能力が高まるかもしれないという場合くらいだろう。 ^^;)
これを読んでくれている人は、まず大人の人たちだろう。^^)
で、仕事であれ知人との会話であれ、英語でコミュニケーションを図ったことのある人なら誰でも同感されるだろうと思うが、言語知識という技術的コミュニケーション能力と、人間としてのコミュニケーション能力はまた別のものであって、後者は明らかに知性に基づくものだ。
ユーモアのひとつ、ジョークのひとつを言うにしても、そこでは例えば英語なら英語が拙いレベルであっても、当人の知性でありセンスが、下手な英語で十分な機知を感じさせ得るものだ。(いや、もちろんコミュニケーションはユーモアやジョークだけではないが)
しばしば僕が使う謂いだが、
英語能力のおかげで国際的に活躍しているなどという人はいない。
イチローが文字通りに国際的に活躍しているのは、英語のおかげではなく、プレーというコミュニケーション能力においてだ。
ビジネスマンであれ、学者であれ、国際的に活躍している多くの面々は、英語能力によってその地位を得ているのではなく、その語る内容において、活躍の場を得ているのだ。
つっこみとしては、通訳などは英語で活躍しているのでは?というものもあるかもしれないが、なかなかどうして、ちゃんとした通訳ならば、英語能力などその能力の一部に過ぎないものだ。日本の政治経済あるいは歴史と、英語圏をはじめとする国際的政治経済、文化歴史を知らずして、たとえば小泉首相の海外での通訳は適うまい。僕はTOEIC満点などとてもスコアできないが ^^;)、満点をとる人であっても、僕の方が米空軍の将校との軍事に関する会話は達者かもしれない。
真のコミュニケーション能力のもととなる知性であり思考力を磨くうえで、低レベルな外国語会話など(特に時間数が限られていればなおのこと)時間の浪費にこそなれ、どれほどの益があるものでもない。
あえて先の例をあげるならば、信長と秀吉のどちらが偉いか、それを日本語できっちり自分なりに考え、発表し、他者の意見を聞いて理解し、同意あるいは反論し、ということができない者が、海外旅行の買い物よろしく稚拙な英語で薄っぺらなセンテンスを投げ合って何の「コミュニケーション能力を高める」というのか、疑問だ。
イチロー少年がバットを振る時間を割いて英語学習に勤しむことが、大リーグへの近道だったはずはない。
もっとも教研集会でも、賛否両論とある。
が、同記事中にあるとおり、「小学校英語は定着しており、是非を議論する段階はもう過ぎている」という指摘も実にその通りだ。
僕としては嘆かわしい思いだ。いつか軌道修正の機会でもあればと思うのだが…
言うまでもないかもしれないが、僕は英語不要論を唱えているわけではない。
ものの順、ということを言いたいだけだ。
そして、英語は、後からでも十分に間に合うということを。
(このあたり、また別記してみようかとも思うが)
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