
およそ日本の政策において僕が最も苦々しく思っていたことの一つ、旧文部省以来の「ゆとり教育」なる方針について、文科省が見直しに着手したという。
文科省「ゆとり」転換、授業時間増を検討
省内には(性懲りもなく)こうした動きへの反対意見も多いとのことで、結果的にどちらに転ぶものかわからないが、取りあえず、見直しの動きを歓迎したい。
教育における「ゆとり」の要不要ということは、程度の問題であって、勉強における地獄のような苦しみ、塗炭の苦しみというものからは「ゆとり」が必要であろうけれど、その「ゆとり」の水準の線引きというところに、僕は不満だった。
そもそも文部省の考えてきた「ゆとり」の水準とはあまりに低く、僕の言い慣れた言い方で言うと、「子供の能力を過小評価」するものだと思う。
僕自身子供だったことがあるし(当然だ ^^;)、小中学生の教育に多少携わったこともあるが、子供とは、多く与えれば与えただけのものを吸収する。
この能力は大人の感覚をはるかに超えているので、通常、子供の能力以上のことを大人が与えるということは、かえって起こりにくいくらいだ。
おそらくこのこと自体は、ゆとり教育を提唱しはじめた初期の役人たちも認めていただろうと僕は思う。にも関わらず、こうした方針が採られた理由は、「落ちこぼれ防止」というところに趣旨があったのだろう。
70年代の教育問題とは、とにかく、授業についていけない子供の存在に焦点が当てられていた。その結果採られたのが、教育水準を下縁に合わせるということだったと考えられる。
これは、戦後教育界を貫いてきた「悪平等」価値観とも整合し、非常に受け入れられやすかった。ここで言う「悪平等」とは、機会の平等という本来あるべきと思われる平等観ではなく、優者の存在を許さず(認めず)、人間は皆同じであるとの価値観に基づいて、無理矢理にでも結果の平等を実現しようとするものである。
それはたとえば通知票の評価において5段階評価を憎み2段階、もしくは段階をつけない、あるいは運動会においては手を繋いで皆んなでゴールする、といったところまで行き着く。
いわく、競争は子供をスポイルしてしまう、というのが上記のような価値観を有する人々の主張だが、これは社会的に既に実証的に否定されているのではないだろうか。
それは、塾の存在であり、スポーツの世界である。
学校がゆとり教育を推進する一方で、世間は空前の塾ブームを迎えた。本来が教育熱心な日本人性からすると世間の当然の動きだったろう。こうした塾では、頑張った子、あるいは能力のある子にはさらに一層高度な学習の機会を与えるのであって、程度の差こそあれ、能力別クラス編成ということは普通に行われる。
あるいは塾のようなものでなく、たとえば公文式の教室においては、寺子屋式に子供が個々に自分の与えられたプリントをやっており、進度は個人々々で異なる。個人の頑張りと能力で、プリントはどんどん上位に進んでいく。プリントが次の段階に進んだときの子供の笑顔といったらない。
いま現在TVで流れている進研ゼミ(だったと思う)のCMでは、友達がチャレンジコース、私はスタンダードコース、「待ってろよ、チャレンジコース」というものがあるが(コース名は記憶不確かだが ^^;)、僕はこういう情景を見ていると、うまく言えないが何か胸に響くというか…温かい気持ちになるというか…頑張れよという気持ちになる。
このCMの女の子は、仲良しの友達が上位のコースであり、自分は下のコースだからといって、やる気をなくし、スポイルされてしまうだろうか?
また、スポーツの世界は、学校の体育以外の場では、それこそいわば優勝劣敗の世界だ。野球やサッカーの地域のクラブであっても、スイミングスクールであっても、剣道柔道、空手であっても、自分の頑張り、能力以外でポジションを獲得したり、級を進めたりすることはできない。ましてや試合を行えば厳然と勝敗は生起する。
ここで多くの子供たちはスポイルされてきたのだろうか?
さらに、そうした結果の平等を目指す架空のお花畑的な教育はむしろ、子供たちが成長して社会に出たとき、彼らをそれこそスポイルしてしまう危険性が高い。なぜなら、現実の社会は、そのようなお花畑ではないからだ。好むと好まざるとを問わず、またその是非すら別として、実社会では多種多様の競争にさらされざるをえない。
会社であれ店であれ、学問であれスポーツであれ。
ある分野で自分より優れた者が存在することを無視することはできない。その時に、あえてそれを正視しない人間を、現在の学校は育てようとしている。
子供であっても、さまざまな分野で能力の差はある。また、努力、頑張りの差もある。そうした差を認める中で、自分の良き点を伸ばし、また頑張ることで自分を高め、同時に、他人の優れたところを認め、そうした精神を育んでやるべきだと僕は思う。
この時、子供の間の優劣のモノサシを複数用意すること、これが重要なのであって、それさえ保障されていれば、健全な優劣意識、競争意識が、子供をスポイルするのではなく伸ばしていくことができるだろう。
ゆとり教育の中で「個性」などということが主張される一方で、実は、こうした個々の差を認めない、実に「画一的」な教育が行われていると言うべきだ。まさに人間の「多様性」の否定としか僕には思えない。
子供を測るに一つのモノサシしか用意しないから競争を否定したくもなるのであって、多様なモノサシを用意してやることにこそ意を砕くべきだ。(これは大人同士でも同じ)
さてあらためて今回のゆとり教育見直しの動きを見ると、授業時間の増加ということが基本にあるようだ。
しかし僕は、学力低下の問題にしてもNEET予備軍的な危惧にしても、必ずしもそれは授業時間云々の問題ではないのではないだろうかと考えている。
小学校の場合、最も授業時間数の多かった60年代末で5821時間、現在が5367時間、いずれも6年間でだ。単純計算すると(夏、冬休み等を考慮せず平均で)この差は一ヶ月あたり6時間ほどでしかない。これが学力にさほど大きな影響を与えるとも思えない。むしろ時間数が増えて塾に行く時間が減れば、かえって学力が下がったりして… ^^;)
むしろ、僕は質と濃度を高くすることを検討すべきと思う。つまりは、授業時間数に拘泥するよりも、何を教えるかということだ。
濃度というのは、単元数(教育項目)を増やすこと、そして質というのは、本当に必要なものを精選し、カリキュラムを再編することだ。
ゆとり教育で僕が最も危惧してきたのは、授業時間数よりも、教育項目の削減である。つまり、「ゆとり=ゆっくりやる」という考え方についての危惧だ。1時間でできることに2時間かける、したがって単元数(教育内容)を減らす、これだ。これこそが、ゆとり教育の本丸だと思う。
「子供」ではないが、僕がしばらく前に愕然としたのは、高校数学からの「行列・1次変換」の削除である。むろんこれも「ゆとり教育」の一環だが、それが無くなったとて数学苦手が減るものではなく、ラクになる実感があるわけでもあるまい。むしろ普通の生徒たちの数学能力を低下させるだけの話だ)
ここを変えなければ、授業時間数を増やしたところで(それも月あたり6時間程度)、何も変わるまいと思う。
なぜ「ゆっくりやる」のか、それは「ついてこれない子」が出るからだ。前述したように、それが「ゆとり教育」の由来であって、ここを見直さねば、見直しにはならない。
そのためには、二種の考え方がある。
ひとつは、ある程度の能力別編成を考えること。実際の塾などを見ても、これが一概にある種の殺伐感を学校に持ち込むとも思えない。
もうひとつは、ある程度の落ちこぼれを甘受すること。やや語弊もあるので言い直すと、つまり、最低限の到達ラインを設定しつつ、そこへの全員到達さえ確保されれば良いとして、よりレベルの高いラインまでは全員の到達を必ずしも期さないというもの。仮に5段階評価の通知票ならば、この最低限ラインに達していれば3を与えてよい。
また、「質」、つまり項目精選、カリキュラム再編については、さまざまな考え方があり、簡単に決めつけることはできないが、ゆとり教育見直しならば、これを機にじっくり研究してみるべきと思う。
たとえば、小学校低学年では、国語だけを徹底的にやるべきだとする意見もあるが、これなども十分検討に値するものではある。そうした斬新な意見は他にも数多くあるが、そうした様々な考え方を諮問し、腰を据えて教育を見直すべきかもしれない。(僕自身思うところがあるので、いずれまた記事にしたい)
先日IEAが実施した理数系学力の国際調査の結果によると、ますます、現在の学力低下が、単に授業時間数などの問題ではないのではとの思いを強くする。
学力低下の日本の子ども、「ニート予備軍拡大」指摘も
注目したいのは、日本の子どもたちが宿題をする時間は参加国中「最短」だが、テレビやビデオを見る時間は「最長」という結果、あるいは、勉強を「楽しい」と感じる子の割合、将来に生かすために勉強するという意識がきわめて低水準であるという結果である。
これらは、むろん、授業時間数などとは何の関係もあるまい。
これは、「ゆとり教育」的なものの「精神」が浸透した結果だと思う。したがって、授業時間数にこだわるのではなく、僕が今回上述してきたようなことも含め、教育現場における文字通り「意識改革」が求められると思う。
もちろん、授業時間数増加がその象徴的なものとして、意識改革を進めるエンジンとなるならば、それにこしたことはないが。
上記記事では、「少子化で受験のハードルが低くなり、子どもたちの競争意識が薄れている」「フリーターでも食べていける時代のため、勉強に価値を見いださない」との分析が示されているが、子供自身が少子化によるハードルの高低など考えたりはしない。子供の競争意識が薄れているのは、前述してきたような教育者側の意識によるものだろう。
【関連する記事】
悪平等。まさに「悪」。アメリカさんの手が入って日本の教育制度は崩壊してしまいました。
私はいわゆる「勉強」と「運動」の成績のバランスがひどく悪い子供だったので、非常に厭な思いをしました。しかし、その「厭な思い」をしなければ、分からないこともあるんですよね。しなくちゃいけない苦労、乗り越えなければならない壁、というものが、小さいときからあるんです。人間には。私はそう思っています。
努力しないと、「愉しい」ことはできないこと。
まず初等教育ではこれをきっちり学ばせてほしい。
基礎があっての「個性の発露」です。
というわけで、狂言師野村萬斎さんが、だいぶ前に中央教育審議会で発言した内容がありますので、ご紹介します。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/12/chuuou/gijiroku/007/000920.htm#top
野村萬斎さんのお話、興味深く拝見しました。
もともと僕は武術を稽古している人間なので、とりわけ共感する部分が多いですね。彼も言及しているとおり、能・狂言は古くは武術との関係も深いものですし、稽古法において差は無いともいえますから。
彼は注意深く「丸暗記」というネガティブにとらえられがちな表現を避けていますが、結果的に彼が訴えようとしているとおり、「丸暗記」なり「型」というものが、全ての土台だと僕は思います。理屈がついてくるのは後からでもよく、また、理屈を組み立てる「部品」は言語同様、まずは丸暗記から始まらざるを得ないものだと。
次元を考えず全面的に丸暗記や型を否定したことが、ものを考える「部品」を奪い、もしくは少なくして、子供の思考力を低下させる結果となってきたのが、これまでの教育の失敗ではないかと思っています。
そしてつながりが構築されて、また新しい疑問がわいてくる。ともかくそこまでに行くためには、最初は詰め込みでやるしかないわけです。
ただ、詰め込みも創意工夫で随分、道のりが変わってきますよね。
数学でも公式だけを詰め込むよりは、なぜこのような公式が成立するのか、きっちりと理解させると、随分、違ってくるものです。
学生の時は家庭教師をしたり塾で教えたりしていたのですが、それはもう全然違ってきますよ、きっちりとした理屈を見せてあげると。
英単語でも闇雲に覚えるのではなく、例えば bicycle は bi(2)とcycle(輪)の組み合わせだと教えると絶対に忘れませんからね。
意外と本職の先生でそういう工夫が足りない人もいますから、丸暗記、型の教育というのは絶対必要ではありますが、創意工夫もまた、必要だろうとは思いますね。
その「ぱっと開ける」気持ちを、たくさんの子供、学生に味わってもらいたいものですね。その感覚というのは、スポーツなどでも同じですが、勉強、学問の方でそれを味わう機会というのは、減っているような気がします。
塾講師、家庭教師、いずれも僕も経験ありますが、今思えば、非常によい経験になっていますね、あれは。何かを教える、とは、人に何かを伝えるということのよい訓練、試行錯誤になるようです。就職して何年か経ったときにも、そうしたことを感じました。
逆から見れば、人に何かを伝えたい、それも誤解なく伝えたいという情熱を持つ人は、それが教育に向かえば、創意工夫の熱意にもつながるような気がします。教育者にはそういう性向を持っていてほしいものだと思います。
私も塾講師の経験がありますが、今なにより、二歳児という、私と途方もなくかけ離れた能力の人間と付き合っていて、すべてを教えていかなければならないという立場にいます。
これも結構勉強になるんですよ。まず相手がどのくらいかみくだけば理解できるかということを把握すること。
その中でだんだん「抽象概念」を教えていく必要があり、善悪の判断を教えなくてはならないんです。感情への同調というのもそうですね。
というわけで、単なる趣味で、私は芥川龍之介の「鼻」を暗記したのを娘に噛み砕いて話したりしてます。暗記しててストーリーがあるもので噛み砕けるもので大人向けって少ないので、今困ってて、ずっと芥川龍之介シリーズ「お鼻の大きいおじちゃんのお話(鼻)」「としクンのおはなし(杜子春)」「細い糸のおはなし(蜘蛛の糸)」になっちゃってますけど(笑)
萬斎さんの記事、賛同していただけて嬉しいです。それは彼の普段からの持論なのですが、以前「課外授業ようこそ先輩」でも、かなり効果的に使っていました。たしかに武術にも通じると思います。「型」というのをしっくり腑に落ちて理解できるのは、他ジャンルでは武術をなさっている方だと思いますから。
とりあえず文字が読み書きできること、そして算数(数学じゃなくて)ができること。これくらいはマスターしていないと、そこから先へは進めず、そして自分のやりたい事は見えてこないと思っています。さらにいえば「自分のやりたいことは自分で探す」ということすらわからないかもしれません。
と、同時に、standpoint1989さんの視点もものすごくわかります。
個人的体験で恐縮ですが、私は高校時代数学が苦手でした。ところが大学で国語学をやるにあたり、統計だとか記号論理学だとか集合論だとかが必要になったんです。そのときに、「ああなんできちんとマスターしておかなかったんだろう」ってものすごく悔やみまして、大学時代も大学を出てからも数学を少しやったほどです。
最初に、たとえば「微分は経済学に必要です」とか「積分は物理に必要(だったと思ったんですけど忘れました)」とかという話や、どう使われるのか、という話を一時間してくれるだけでも違うと思うんですよね。その分野全体に対する「知的好奇心」を刺激する、というのか。
そういう授業を私は受けた事はありませんでした。
たとえば英語だって、結局「自分で言いたい事を話せるか・書けるか」または「相手が書いたり話したりしたことを、理解できるか」が最終的な目標なのに、スペルが一つ間違っていて×とか、どうでもいいようなことで減点されて、興味を失ってしまう。
先生の質はどんどん低下しているような気がしますし、授業って大変なのだろうとは思いますが、子供の将来を本当に考えたなら、とりあえずの一年を過ごすのではなくて、創意工夫して欲しいです。
逆に今は、知的好奇心が刺激されて何かを読み、またそれから刺激されて、とサークルとも蜘蛛の巣とも取れないような形でどんどん広がっていく世界が、愉しくもあります。大学に行ってからの(とくに専攻の)学問は、ほんっとーに愉しかった。この愉しさを知る子供が一人でも多くなるように、と、私も思っています。
前にも言いましたが ^^;)、重ねて、ぶんばださんのようなお母さんの存在は、心強いです。
学問の楽しさということは、僕も後になるほど感じるようになりました。僕は法学部でしたが、今いちばん好きなのは数学です。もういちど大学に、今度は理学部で行きたいなどと、ここ数年本気で考えていたりします。 ^^;)
一方で、組織論を学び直したいという気持ちもあり…しかし自分の中での基盤の薄さからいうとやはり理学部かなあ…といった感じです。
思えば、大学の入学年齢を19才ではなく、24くらいにしたほうが(それまではまさにモラトリアム、あるいは短い勤労生活)、真に必要な、あるいは興味のある分野を見つけ、大学で学ぶことも充実し、楽しくもなるのではなんて、考えます。
まあ、それよりも、割と自由に社会と大学を行き来することが可能な生涯教育の態勢と雰囲気を醸成するほうが現実的かもしれませんが。^^;)
あと、大学の入学年齢はともかく、卒業をもっと厳しくしたほうがいいかもしれませんね。私は(ブログを読んでいただけるか、本サイトの「プロフィール」を読んでいただければお分かりのように)ドイツに二年いましたが、あちらでは徴兵制があるせいもあり、大学に通常は10年いる!というひっじょーに気の長い?大学生活をしています。
現状では、生涯教育は本当にやってほしいですね。まだまだ知りたいことがたくさんありますから!