早速にも来週の法案提出が喧伝されている夫婦別姓の解禁だが、
身の回りの多くの人の期待を裏切って、実のところ僕自身はことさら反対ということもない。
解禁と書いてみたとおり、別姓義務化ではない。選択が許されるだけの話だ。
法的にも同姓をと望む人はそうすればいいし、それを望まねば別姓を維持すればいい。
僕自身がその時を迎えたら、彼女の意向に沿うだろう。
僕があえて願ったり説得することはないので、同姓を選んで「くれる」とは表現しないが、そう「なりたい」と言われれば、僕は喜ぶだろう。しかしそれは何ら信条云々の話ではなく、それもひとつの愛情表現かなととらえる素朴な嬉しさだろう。
まあ、これは僕個人の場合。
ところでこの問題、紛糾もするところではするわけだが、
僕が思うに、それは夫婦別姓それ自体の是非という問題ではないのではないか。
そういった話と、それから民主党の議論機会不在への危惧について少し。
まず選択的夫婦別姓制度について。
これは、その法案そのものの問題による紛糾ではないのだろうか、と書いたが、
日本の国民社会に与える具体的なメリット・デメリットよりも、
つまり、政策の具体的効果や影響の問題よりも、
推進者・反対者の間でのイデオロギー闘争だろう。
ある種の神学論争であって、どちらが勝っても、それは彼らの間での満足感・敗北感という決着を生みはするが、日本の社会にたいした影響があるわけではない。
推進する側も、それが社会に与える(彼らが善きと考える)効果を説明するし、
反対する側も、それによって社会が被る(彼らが悪しきと考える)影響を高説するが、
実際のところ、
前者であれ後者であれ、それらが与える具体的影響など、たかがしれている。僕自身は、各個人の事情というレベルではともかく、社会というレベルでは何ら計算に入れる必要もない、無に等しいだろうとも思っている。
ある程度厳格な家父長制をとる社会であったとしても、その戸籍制度と家長の権限が維持されるなら、仮にそこで夫婦別姓が選択できたところで、戸籍に属す以上何らさほどの具体的メリットはない。
ましてそうした制度も無い今日、別姓が選択できるようになったところで、実生活上の画期的メリットが生じるわけでもない。
あるとすれば、半生慣れ親しんだ自分の姓名を免許証やパスポートにおいて使用し続けることができるという満足感だろうが、まあ、しかしそんな程度の「自由」は本来政治が対象すべき重みのものでもない。
男女同権と絡めて議論する人もいるが、それは些かズレているだろう。
今日とて両性のどちらがどちらに入籍すべきか決まっているわけではないし、現にいわゆる養子縁組は身の回りにも珍しくはない。
また、仮に今日夫婦間における男女間差別があるとすれば、それは、別姓になれば解消するというものでもなかろう。
翻って、反対論者のいう影響なるものについても、
伝統という言葉の定義する時の長さが明瞭ではないので一概に否定もできないが、まあ一般的通念に照らせば、たかだが明治以来の慣習というか法規定は、我が国の一般的歴史感覚からすると、習俗であるとか伝統とまでいうには些か足りないのではないか。
また、通常、伝統なるものの破壊を怖れるには、ただ伝統が途絶することそのものを拒否する心情と、その伝統がもたらしてきた善きものが失われることを危惧する立場とがあるだろうが、
前者については、(僕個人の考えでは)それが絶滅するのでなければ、つまり保存されるのなら普通は問題ないのではないか。伝統芸や民俗風習の保存と同じで。
別姓が選択できるようになっても、同姓を選ぶのも自由だ。彼氏と同じ苗字になる幸せを感じるひとは、これからだってそれは味わえる。
後者については、夫婦同姓がもたらしてきた善きことというのが、ちょっと僕にはわからない。
夫婦の絆であるとか家族の一体感ということは、もしそれがあったとしてもそれは同姓がもたらしてきたものではない。と、断言してしまうが、いちいち例示は不要だろう。
また、歴史上多くの時間、多くの人々が苗字などもっていなかったけれども、明治になって苗字を持ち、しかも夫婦で同じ苗字を持つようになったからといって、格別の社会的好影響が(少なくとも政治が問題にすべきレベルで)あったようにも思えない。
併せて検討されているだろう戸籍そのものの抜本改革についてのほうが、多少、反対する論拠は出てくるが、それにしても、具体的な影響よりは、やはりイデオロギーの戦いの面が強いように僕は考えている。
もののついでだが、戸籍については僕個人は次のように考えている。
個人単位の管理でかまわない。
ただし、家族という単位が識別できる枠組みはあったほうがよい。
入籍というよりは、個人と個人のグルーピングといったイメージでよいのではないか。
(加えて、僕は、婚姻以外の家族法人的グルーピングの制度も年来考えている。)
姓名は変更できてしかるべき。
戸籍制度発足時とは時代が違う。十分にIT化が進んだ今日の役場環境では、個人が数次の姓名変更を行なっても、管理上見るべき困難はない。もっとも、変更から次の変更までの最低期間を設けるなど、ある程度の歯止めはあってもよい。
特に子供の(苗字でなく)名前については、成人時に登録を義務化してもよいと思っている。(ひとつの通過儀礼にもなるし、もちろんもとの名前をそのまま登録してもよい。)
という次第で、僕自身は夫婦同姓にことさらの反対をしないが、
しかしもし国会において投票するということになれば、賛成票は投じないかもしれない。
くりかえすが、これはイデオロギーの戦いだと思う。国民視点なんかではない。
僕は、法案そのものに異論はないとしても、それを提出する人々の、法案ではなく法案の背後にあるものの考え方に対して極めて反対の立場に立っているので、
まさにその背後にあるものが実に苦々しい。
おそらくは、この問題の反対論者たちも、実はそういうことなのではないか。
法案そのものについて懸命に論ってはみるものの、今ひとつ説得力を持ち得ないのはそういうことだろう。
本人たちは気づいているだろうか。
彼らは、法案がイヤなんじゃなくて、法案の出てきた淵源、そこにあるイデオロギーがイヤなんだということに。
多くは自覚していないのではないかな。
僕はイデオロギーの闘士なんてものは大嫌いなので、彼らにも同情などはない。
自覚している分、おそらくは僕のほうがいくらかはマシだろう。 ^^)
さて、ところで僕の見るところ、民主党の政策課題の処理の仕方には些かの義憤を禁じえない。
民主党の優先政策は次のように大別される。
第1優先:イデオロギー闘争
第2優先:支持基盤との約束ごと(論功行賞)
第3優先:マニフェスト
第4優先:総理や閣僚の当座の思いつき
優先なし:その他喫緊の課題 ^^;)
1に該当するのは、件の夫婦別姓や戸籍、永住外国人地方参政権、人権擁護法案など
2は、電波通信行政の総務省からの切り離しや、教員免許更新制度廃止、学校委員会、郵政見直しなどなど
僕は冗談でよく言うのだが、民主党は、内心の優先課題や力を入れたいことほど、マニフェストには書いていない(もしくは強調を避けている)。
その証拠に、大急ぎで優先しているものはほとんど選挙期間中に国民の多くが気にしていなかった(知らなかった)ことばかりだ。
たとえば夫婦別姓や永住外国人の地方参政権の次期国会でというこの扱いの優先度を見よ、だ。
それが他をおしのけてかくも優先的に取り組まれるべき必要性を、誰が説明できるのだろう。
しかも参政権については、国民に説明する前に先に韓国議員に小沢氏が説明(報告?)、約束する始末。
また、これは別に記事を立てるべきだろうが、
民主党内での議員立法行動の禁止も、問題があるように思う。
閣僚が何かを思いつく、
官僚には関知させることなく決定、
党側での政策協議機関は無し(禁止)、
いったいどの次元、どの時点で議論が行なわれるのか…?
頼みの綱は閣議だが、亀井氏のモラトリアム案に明らかなとおり、閣議は議論をしない。
東アジア共同体?どういう国民的議論、あるいはせめて党内議論を経て、諸外国に提案しているのか?(もう一方の国はともかく中国はバカではない。そうだからまともに返事をしないのだ。)
外国人参政権でも夫婦別姓も、来年年明けにも提出というが、誰がいつどこでどれほど議論したのか?
モラトリアム法案?亀井大臣が発案したのはいいが、議論は無しか?
これから生まれるあらゆる政策は、発案者の頭の中を出たあと、誰がどこで議論するのか?
脱官僚、そして脱政党政策審議、という政府一元化は、おそろしく危険なのではないか。
いかに自民党が利権体質といえ、そしてその利権の鬩ぎあいであったとしても、そこには、政府・与党・霞ヶ関の熾烈な綱引きと議論の中で、一定のフィルタリングやブラッシュアップはなされていたし、その過程は国民の目にもある程度見えた。
さながらヒトラーの首相就任時のようだ(議員立法権の拘束)というのは言い過ぎとしても、そういう声が一部に上がっているのはまんざら荒唐無稽ではない。
自民党のようにせよとはいかないが、とにかく早く、独自のシステムを確立すべきだ。確信犯でない限り。
何かというと国民の視点だの国民の立場だのと言うが、
これら政策立案過程のどこに国民の視点や、国民の介在余地があるのか。
実に危ない。悪気がないなら、速やかに整備を考えるべきだ。
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福島瑞穂は夫婦別姓を昔から実践しており、夫は左翼活動家の海渡雄一である。
法律で自分の行為を正当化すると同時に、日本において夫婦別姓を推進し、社会と家族の不安定化をねらう意図がある。
沖縄は戦後27年間に亘り米国に占領されていた。福島瑞穂は夫と共に沖縄は日本の領土ではないとして、日本への返還阻止活動を行ってきた実績がある。
千葉景子や福島瑞穂らは、生得的に反日活動に生きがいを求め、見い出してきた女性である。
政権与党となったのをチャンスに民法の改悪をしようとしている。