2009年03月11日

クリアな頭


 僕が好きな人に、おそろしく歴史的知識を欠くひとがいるんだけど、

 このまえ、たまたま話にシーザーの名が出たら、

 「誰ですか?それ」

 で、「カエサルやで、カエサル」

 「なんか聞いたことあるかも。王様か何かですか?」

 「そうそう!あ、いや…王様までは結局いかなかったんだけど… ローマ帝国のさ、いや…まだ帝国じゃないな。まあ…でも…そんな感じの…。」


 ちょっと前に、何かの髪型の話で、「足利尊氏みたいなさ」て話で(実際には高師直という説もある教科書等でお馴染みのあの絵)、
 「誰ですか?それ」


 僕がこの話をするのは、その人をけなしているんじゃなくて、むしろ感心してるって話。

 そのひとは、賢いひとで、ものごとの判断もたしか。
 僕は大いにかっているし、一目おいてもいる。
 本人は意識してないかもしれないけれど、戦略眼・戦術論的な話でも、きわめて妥当に判断する。


 そうなんだよな、知識とそれは別なんだよな。


 思考の材料としての知識はもちろん必要だけど、
 しかし、その必須の材料というのは、いったいどれほど必要なものか。
 知識が判断を邪魔することも多い。

 僕は、そういった、情報入力量の適正ということも、近年わりと気にすることが多いんだけど、
 とかく今日という時代は、情報入力ばかりに労を費やして、それをつかって思考するという時間がどんどん短くなってしまいやすいように思う。

 政治や外交は、左伝さえ読み込めば十分といった意味のことを言ったのは、大西郷だったっけ…どうだったかな(違ってたらごめんなさい)。
 春秋左氏伝は僕はさらっと一通り読んだことがあるきりだけど、
 たしかに、ものごとを思考し、正しく判断するのに本当に必要なことは、そう多くないんだろうと思う。(左伝でも多すぎるのかも。というか、あれは知識というよりは、ケーススタディ的側面もあるのか。)

 ただでさえ人は知識にとらわれやすい。
 だけど、膨大な知識を持っていながら、全くそうでないひとももちろんいる。
 (生半可な知識という人がかえっていちばんイタイことが多い)

 その差は、(単に頭のでき具合ということを抜きにして考えれば)

 ひとつは、実際の思考量だろうか…。
 同じ情報、知識を得て、それらを題材にどれだけ実際にものを考えるか。どれだけこねまわし、いじりたおし、組み合わせてみているか。

 ひとつは、
 どうもうまく言えないけど… 知識を、所詮単なる知識と、自らトリビア的にとらえてるくらいの人のほうがいいのではとも思ったり…。
 妙に有難がったり、やたら自負するのでもなく。


 僕は、もう本(やネット記事)を読むのをやめようかと思うことが時々ある。(小説などではなく、専門書とかの類)
 むしろ知識に汚染されていっているような気がすることがある。
 これ以上、何かを知ってどうなるんだろうと。(既に多くを知っているなどという傲慢で言っているのではなく、本当にまだまだ知識を増やす必要があるのだろうか、という意味で)

 さきの西郷隆盛であれ、坂本竜馬であれ、高杉であれ、
 織田信長であれ、家康であれ、頼朝・義経であれ、
 どれほどの書物を読んだことか。
 よほど読んでそうな勝海舟だって、現代の僕らに比べれば、たかがしれてるだろう。福沢諭吉だって。
 (海舟にいたっては、剣の稽古からしか何も学んでいないとまで言っているが)

 昔は今ほど政治も複雑じゃないから、と言うべきだろうか。
 しかし…彼らの時代に必要だった幾多の判断が、今と比べて単純だったとも言えない気がする。


 ひとつ効率性の点で、イヤなヤツかもしれないが自慢をさせてもらえば、
 僕は科目としては、模試で名が載るくらいには英語が得意だったんだけど、人生で、かの「英文解釈教室」一冊だけしか勉強してない。単語もイディオムもあれに出てきたのしか覚えてない。作文もあれでやった。高校入試もなかったし授業も全無視でサボり続けて中1から高2までずっと英語補習組だったので。(高2のときに、英文解釈教室をやった)
 そのかわり、(やったと豪語しても実は例題だけなんだけど)3回通りやった。3ヶ月かけて。

 で、実はそういうことなんじゃないかと。
 西郷が左伝だけでよいと言うのも。

 「英文解釈教室」にせよ、既に当時でさえ使われている文章は古色蒼然としたもので、全くもって今日的なものではなかった。
 しかし、英文を読む上での基本的なところ、不易の部分はあるわけで、今どきの単語や言い回しを知ることはなくとも、英文解釈の勘所がわかっていれば、それが深刻な事態をまねくことはあまりない。

 左伝で十分というのは、しかし、それを徹底的に読み込むのだろう。
 そして、さまざまに自ら考え抜くのだろう。

 勝が100冊読んだというのは、おそらく僕らが100冊読んだというときとは質が違うのだろう。


 僕自身考え中なので、結論めいたことは言えないが、
 つまり、
 判断力や思考力といったものをいうなら、知識の量よりも、知識をいじる時間の方が大切なのではないかということを思う。
 そして、知識が邪魔になるとまでは言わないとしても、知識摂取にかける時間と、それについて思考する時間や何かを生産する時間とのバランスを、よくよく考えてみるべきなのではないかと。(生産というのは、多くのblog記事によくあるような、他で見聞きしたことの単なる抜粋作業のようなもの(それは知識の定着ということでは意味がある)ではなく、あらたな知見の生産、もしくは生産に至らずとも生産しようというプロセス、という意味で。)

 学者たちは、政治家でもなければ経営者や指揮官ではないし、職業的に膨大な知識は必要不可欠だけれど、優れた学者であれば当然、1時間の書見があればそれに数倍する思考の時間があるのではないだろうか。

 僕はライフログをつけているんだけど、
 先日、アナログ・デジタルを問わず資料的なものを読んでいる時間にくらべ、純粋に思索している時間のあまりの少なさに愕然とした。
 昔はこうじゃなかった。半日考え事をしてることだってざらだった。
 それが、先週一週間で2時間もない。
 愕然だ。

 走りながら考える、とりあえず実行に移しながら考える、というのは僕は好きだが、
 果たして、そんなに考えてるか、走りながら、近頃は。



 冒頭、件のひとに話をもどせば、
 いかな人類の智慧の宝庫とて、歴史に頼らずとも、ものを考える材料は身の回りの世界にもたっぷりあるということだろう。(そりゃそうだ)

 僕は、好きだからやめられないけど、ちんまり歴史をめくりながら考えるのは。


 だけど、知識や雑学がなくて頭がいい人はカッコいいなとあこがれる。
 それこそがクリアーな頭なんじゃないのか、と。和室のように。

 単に、無いものねだりか隣の芝か…。

posted by Shu UETA at 00:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。