
spice boyさんの記事に触発されて…
僕は、あまりうれしくないことを人からされても、あるいは裏切られても、騙されても、ダシにされても^^;)、しかし懲りないヤツでいたいと思っている。
さらには、人間関係に限らず、万事「懲りない」ことを信条にしている。
(今回は非常に蒼臭い話につき要注意 ^^;)
僕は、蒼臭いひとたちがする蒼臭い議論というものが好きだ。そして、僕自身、いつまでもそういう蒼臭さを失いたくないと思っている。
そうした議論、僕なんかの場合は、大学の頃にはよくしたものだった。そういうことを語り合う友人がいた。
「人間なんてしょせん一人っきり」
あるとき、友人が、彼の母親がいつもそう言い聞かせてきたという話をしたことがあった。彼は、「熱さ」をもった男だったが、こんなふうに考えて生きるのは違う、そう言い出した。
人間、調子のいいときには人も集まり、親切にもしてくれるが、落ち目となると皆んな去っていくものだ、と言われる。僕も傾向としてそれはそうだと思う。
人間、基本的には自分が可愛いのであって、自分の得にならないことはしないものだ、いざ自分の損得がからむとなると、他人のことより自分のこと、人を裏切りもする、裏切るまでいかなくとも、助けてくれはしない、と。皆がそうだとは思わないが、そういう人が大部分であるだろうとは、僕も思う。
だから、人は当てにするものではない。期待するものではない。いざとなったら自分だけだ。万一誰かが思いの外の親切をかけてくれれば、それはラッキーなこと。だけどそれを期待するものではない。
そう考えて身を処すことは、論理的に正しい処世訓だろうと思う。
かく言う僕も、ずっと以前、「期待をしない」ということを信条としていたことがあった。
それは、期待を裏切られることで傷付くことが多かったからだ。場合によっては、随分つらいこともある。
それがいやで、何でつらいのかと考えると、それは自分が勝手な期待をしているからだ、というところに自然に結論づく。論理的な結果だ。
他人は他人、彼らが何を思い、何をするかなどということは、自分のあずかり知るところではないし、コントロールできることでもすべきことでもない。すべては、自分が勝手な期待をするところに問題がある、と。
これに気づけば、精神衛生は随分良くなる ^^)
ところが、実際には、僕個人に関しては、どうもこれは肌に合わなかった。僕は他人の中に善意を見ることが好きだ。だから、上記のように考えることは、精神衛生上ラクにはなったものの、どうも僕には寂しすぎた。
そこで僕は懲りないことにした。この際、何度でも他人を信じ、何度でも期待を裏切られてやろうじゃないか、と。これは実に僕の肌に合った。^^)
実は単に時系列上の前後の問題に過ぎないのだが、僕は、事が残念な思いに終わった後から、「まあ勝手な期待をしていたのはオレだからな」と考えることにした。
世の中というのは、必要なときには必要なメタファが与えられるもので、当時、僕は「Dr.クマひげ」というコミックを、とある店で読んだ。たしか朝食バイキングを食べに行った店だった。このコミックは、実は高校の頃にも読んでいたんだけど、懐かしいなあ、なんて手にとってまた読んだわけだった。
その中に、こういう話があった。
ちなみに、クマひげこと通称クマ先生は、腕利きの医者で、大学病院でも将来を嘱望されていた。ところが、あることをきっかけに大学を離れ、東京歌舞伎町(かな?)あたりで個人の小さな診療所を開いている。
さて、ある時、患者に暴力団のチンピラがいたのだが、これの怪我の面倒を常々診ていたクマ先生は、ある時、闘争で大けがをした彼を諭し、まっとうになれと、田舎に帰ってお袋さんを安心させろと、そして、故郷までの切符まで買ってやって(ちなみにクマ先生は貧乏)、駅のホームまで彼を見送った。彼も涙を浮かべて、立派にまっとうに生きると誓っていた。
それから月日が流れたある日、その彼が刺されているのが、東京で見つかった。既に手遅れで命は助からなかった。彼は、あんな約束をしたクマひげのところにはどうしても行けなかったのだ。
クマ先生は、バッティングセンターでボールを打ちながら、叫びまくる。バカ野郎と、なぜうちに来なかったのかと、そして「オレは何度でも騙されてやったのに!」と。(TVドラマ可された際には、滝田栄がクマ先生を熱演してた)
そして、僕は「オレは何度だって騙されてやったのに!」という言葉に、その日、背中がぞくっとした。
むろん、この「騙される」と、本当に人から「騙される」ことは別ではあるが、少なくとも身の回りの人々たちについて、僕は何度期待を裏切られようとも、裏切られ続けてやろう、そう考えるようになった。
さらにこのクマ先生の場合については、何度でも騙されてやる(期待を裏切られてやる)=「見捨てない」という構造にもなっている。
「何度でも騙される」「見捨てない」は「無償」ということ、見返りを求めないことにも近づく。
これは、spice boyさんが言う境地にも近づくと思う。
見返りを求めない純粋な想いが存在するってことを信じさせてくれる。 だから、自分もそうありたいと思う。 例え、世界の99%が自分のことしか考えてなくっても、 僕も残りの1%になりたい。 与えられなくても、与えられる人になりたい。 優しくされなくても、優しくできる人になりたい。 愛されなくても、愛せる人になりたい。 |
だから僕は、強くありたいと、そしてもっと強くなろうと思っている。
いかに裏切られようとも、何度騙されようとも、僕は強いからへっちゃらだ、そう言っていたい。今はそれが理想だ。
「ダイアモンドは傷つかない」、これは古い映画(田中美佐子)のタイトルだが、この言葉にはとても惹かれる。(映画はまるで面白くなかった ^^;)
もちろん、しかし仕事等の実務の上では、なかなかこうもいかない。それこそ危機管理上の観点からは、「勝手な期待」などもってのほかであるし、他者に対する盲目的信頼などは命取りともなる。また、自分が傷付くのを厭わないのは自分の勝手だが、組織を率いて、組織の皆をそうした目にあわせるわけにはいかない。
僕だって、僕がやろうとすることにおいて、常に傷つけられ、怪我を負い、敗北することがあってはならない。
ここで、僕には葛藤がある。
今のところは、少なくともプライベートと仕事は分けて考えようと思っている。分裂的だけど、いつか、何かをさとって統合できるような気がしている。
そして今のままだとしても、それは僕の好きな言葉「冷頭熱腸」ということにも合致するような気がしている。熱いハートと怜悧な頭脳、だ。
性善説だとか性悪説だとかいうことについては、昔からいろいろ議論されるところだ。
僕は今のところは、善悪対置ではないところでの性善説を支持している。
対置ではない、というのは、「光なくして闇なし」(光は存在だが、闇は光が無い状態に過ぎない)ではないが、善悪というときの「悪」などというのは、すべて人間の「弱さ」からくるものだと思ってる。
これもやはり学生の頃だったが、こうしたことをふと思いついたとき、何か目が開けた思いがした。そしていろいろ考えてみても、人間というものがおかす悪徳だの悪事だのは、どれもこれも、なんらかの「弱さ」に行き着くと確信できた。
もちろんこれは真理などという話ではなく、僕なりの仮説にしか過ぎないのだが、しかし、こう考えれば、他人のそうした「弱さ」が引き起こすさまざまなことに、僕は傷付けられたりするのではなく、それを撫でていきたいものだと思うようになった。
そうしたいっさいに傷付かず、人の弱さを撫でていくためには、僕自身が圧倒的に強くなくてはならない。小さな子供が何をしても、立腹したり傷つけられたりすることがないのと同じように。
これが、目下の修行の一つでもある。まだまだ未熟ではあるが… ^^)
「守る」「守護する」というのは、僕の最も大切な理念のひとつだ。僕は僕のひとたちを必ず守る、けっして見捨てない、そう誓っている。それは彼女や家族はもちろん、友人はもとより、一度でも何らかの縁があった人は全て。嫌いな人であってもだ。そしてもちろん、何度僕を裏切った人であってもだ。
こうした信条に照らしても、上に述べてきた現時点での考え方は、矛盾しない。
最後に、「可愛がりかたが足りない」という言葉で僕がハっとさせられた文章を紹介したい。
これは、数年前に「武道通信」に載っていたが、何号だか忘れてしまった。
無影心月流の梅路老師の話、「生死両断の悲剣」という文章の一部。(何ぶん古い時代の話なので、死語も登場するが ^^;)
話は今から六年以前のことである。門人関係で、モダンガールの見本のような一美人を老師の手許に預かっておられた。 人は馴れると図々しくなるもので、この美人君、例に洩れず、生来の出しゃばりがそろそろ台頭して、ついつい一々に差し出て掻き回すようになってきた。 「可愛がってやれ・・・」と老師に言われていても、奥様は女である、他のためにもよくないと、彼女に対し、遂に手厳しい一言を投げられた。 そのことを聞かされた老師が、 「おまえたちは始終一貫して人を可愛がりきらぬから往々にして道を誤る。一度愛すれば、相手が信じようが信じまいが、従おうが背こうが、自分にはいささかも変わるところはないはずだ。自分の真の心を人に乱されるようなことではどうにもならぬ、可愛がりようが足らぬからだ」 と言われて、しばらく黙っておられたが、思い出されたように、 「そうじゃ、妹のことじゃ、あのことでも分かるであろう、相手がどう背いてもオレの心持ちは変わりなかったであろう、あれだよ」 と言われて、じっと奥様を見つめる老師の瞳は、心の奥底までも見抜くような爛々たる光を放っていた。 その妹様のことというのは、かつて奥様の妹様夫婦が事情あって家を出られたことがあった。(以下略) |
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エラーで消えてかなり沈んでました。
やっと立ち直って再びコメントです。
何かと、私はShuさんと近いものを感じます。
「行動はクールに、心はホットに」って私の信条なんですよね。
「悪」というものに関しての考え方もまったく同感です。
「期待をしない」ということ…
Shuさんにもこんな時代があったんですね。
私にはまだまだShuさんの境地は遠いのでしょうか?
でも、よくよく考えてみると、
「信じる」ってことにどうしても
「期待」が入ってきてしまう気がするんですよね。
何度でも裏切られようって、僕も同じ姿勢で、
私はそれを信じてるけど期待はしてないって思ってました。
でも、それは違うのかもしれません。
信じている中には、何かが通じる期待が込められていると思います。
だから、私も結局は「期待」し「信じている」のだと思います。
そうすると、やっぱりShuさんと近いのでしょうか?
最近はサーバーの調子も今ひとつだったし…わりと多く書いてからのエラーは痛いですよね ^^;)
ところで
「境地」などとは、とんでもないです。その時々で、自分が納得できる、信じれる、自分の態度を選んでいるだけですから。(みんなそうですよね、きっと)
少なくとも、そうした真摯さの点で、僕はいつもspice boyさんに親近感をおぼえます。^^)
そして、「性善説」で生きています。
まあ人生も長いので、結構な目に遭ったりしてきましたが、そして期待をせずにいられればいいのですが、やっぱり無私の提供というのは難しいですね。
そして、「悪」についても考えは同じながら、それを目の前にそして非常に効果的な形でぐさっと刺し込まれた時に、私にはまだそれに耐える力がありません。
時間がたって、やっと「ああそうだったのか」とは思えても、なかなか怒りを「赦す」という方向には持っていけなくて。
というわけで、病気に罹ってしまうんですよね。
自分の存在意義を、今は自分で決められる自信がないのだと思います。
というわけで、TBは私に対して「無私の愛情」をくれた人の記事にしておきます。
なお、余談ですが、この記事に、娘の名前の一文字が入っていて気に入りました(^○^)熟慮を重ねて決定した名前です。最初に彼女にあげたプレゼントです。
しかし…字だけ見ると某有名人を思い出すのがなんかイヤ。
自分で読み返しても、やや気恥ずかしい記事ですが、しかしまあ僕の現在の決意のほど、といったところです。今読み返して、また心に刻んだところです。^^)
T/Bありがとうございます。拝見しましたが、さすがにあの3人以外の立場ではコメントつけ難いですね、遠慮しました。^^;)
しかし出逢いというものは…何というか、実に有難いものですよね。そして、お互いのチューニングが合っていないと、お互い何も感じないままに通り過ぎてしまうものでもありますよね。
僕も、その3人のように、誰かに元気をあげれる人でありたいな、と思います。
> 記事に、娘の名前の一文字が入っていて気に入りました
どの字でしょう…?
この記事に使われた全文字の中で、僕がいちばん好きな字は「蒼」です。次が「守」。^^)
怜子というんです。怜という字には「ものごとの真髄を見抜く」という意味があったのでつけたのですが、某タレントと同じ字なのがなんとも苦々しい…
「慧」という字と最後まで迷いました。
ところでこちらはリンクフリーというお話だったと思うのですが、一応お願い。ブックマークに加えてもよろしいでしょうか?
なるほど、「怜」とは素敵な字ですね。^^)
リンクはどうぞ、ありがたいです。
それでは 僕の方でも、リンクをはらせていただきましょう。