「名将言行録」18号関連記事
マガジン18号では、毛利元就12才の折、厳島神社参詣の際のエピソードを紹介したくだりがありました。
彼いわく、日本を取ろうというくらいに思っていてようやく、何とか中国地方を取ることもできるだろう、最初から中国地方を手中にしたいなどと言っていて、どうしてそれが実現できるだろうか、と。
そして、私は、名将言行録に紹介される名将たちに限らず、何事かを成し遂げた多くの人物たちというものには、こうした、気宇、気概にまつわるエピソードが多くある、願わくば私たちも、それぞれに気概と気宇を持って人生に向かい合いたいもの、というコメントを書きました。
マガジン文中にも書きましたが、たとえばNHKの好評TVシリーズ「プロジェクトX」でのさまざまなドキュメントタリにも明らかなように、何事かを成し遂げるかどうかというのは、その能力や運の問題がもちろんあったとしても、まず問われるのはそうしたものより先に、「やろう」と思うかどうか、「できる」と考えるかどうか、それが第一の分岐点ではないでしょうか。
ちょっとズレた例えかもしれませんが、宝くじ、少なくとも買わない者が当たるはずはない、ということにも近いのかもしれません。
もちろん、現実の状況や自分自身に対する冷静な判断などを一切欠いて、地に足がつかず、ひたすら夢ばかりを夢想するような、そういうことを善しとするわけではありません。
しかし、その反対に、現実的という名のもとに、徒に自分の可能性を狭めている人たちも数多くいるのではないだろうか、とも思います。
この辺のバランスは難しいのかもしれませんが、それでも、願わくば、皆それぞれに「気概」を持って仕事にも人生にも取り組みたいもの、そう私は思います。
そして、先の宝くじの話のように、単なる分岐点としての問題だけではなく、「気概」というものは、能力自体を向上させるようにも思います。
あるいは、向上させるというよりも、十全に発揮させるということかもしれません。
こうしたことは誰でも日常で、体験を通じ、薄々感じているのではないでしょうか。実際の問題の難しさではなく、その時の自分自身のテンション次第で、まず第一印象が「できそう」と思ったときや「やったるか!」と思ったとき、逆に「無理そう」とか「面倒〜」と思ったときで、能力発揮の度合いは全く違う、そんなことを、薄々感じることは、よくあるのではないでしょうか。
個々の些細なことでさえ、そうであるとすれば、仕事であれ人生であれ、より長期的なことについては、そうした心の持ちようがどれほど大きな影響を与えるでしょうか。
歴史人物と言わず、より身近に、例えばスポーツで活躍している優れた選手たちを観察しても同じです。名選手と言われる人物たちに、気概に乏しい人はいないのではないでしょうか。
気概であるとか気宇ということは、もちろん、自己に対する自信の程によるところもあるでしょうが、それ以上、少なくともそれと同等くらいに、目標意識であるとも言えます。
つまり、自分に自信があるから気概があるということより、何かを成し遂げたいと思っているということが、気概につながっているのではないだろうかということです。
気宇壮大という言葉があります。多くの偉人達は壮大な気宇をもっていた人が多いでしょう。しかし、他と比べて壮大であるとか卑小であるとかいうことではなく、まず、そうした気宇、気概を持っているかどうか、そしてそれは、自信と目標意識をもっているかどうか、それが肝心なことではないだろうかと私は思います。
ある種のことは死んでもできない、そういう何かを持っている人間と、そうしたものを持たない人間、それこそが「品格」である、そういうことを塩野七生さんが書いていたことがあります。
同じように、やり遂げたい何かを持っている人と、そうしたものを持たない人、その両者の差、それが「気概」というものの少なくとも一部分ではないかと思うのです。
最後に、微妙に本論とずれるきらいもありますが、私の大好きな話があるので、ここに紹介しておきたいと思います。
これは、中谷彰宏氏が、著作「オードリーが教えてくれたキス」で紹介していたアニメ映画の話です。
「何度死んでも欲望があればよみがえれる」 千夜一夜物語 何回も何回も窮地に陥れられるんだけど、そのたびに、アルディンはカムバックしてくる。 窮地に陥ったときの、アルディンの口癖というのがある。たとえば良い話に目が眩んで飛びついたら、実はそれが落とし穴で、それにはまってしまうんだけど、普通の人間だったら「ああ、もうダメだ」と思いこんでしまう。そういうときでも、 「小せえ、小せえ。オレの夢はなあ、こんな小せえものじゃなかったはずなんだ」 と言って笑ってる。これが彼の生きるコンセプトなんだ。 「あれはあれでいいと思ったけれども、オレにはもっと大きい夢があるから」というふうに考え直して、倒れても倒れても次の道に進んでいく。 手塚治虫は、煩悩を否定せずに、「小せえ、小せえ」と言いながら生きることを止めない人間の命を肯定している。 それがいちばん象徴的なのは、アルディンが牢屋に閉じこめられたとき。 無実の罪を着せられ、拷問にかけられて「さあ、吐けっ」とか言われるんだけど、そこで彼は「オレはやってない」と言い続ける。 そこで諦めて、殺してくれとか言うのではなくて、食事の時間になったら、 「とにかくメシだ。オレはこんなところで死ぬわけにはいかない。まだまだやりたいことがあるんだよ」 とぺろりとたいらげる。 アルディンは要するに欲のかたまりなんだけど、彼には生きるエネルギーがある。 生きたいという気持ちがある限り、人間は何度でもよみがえるのだという手塚治虫の哲学がここにあるんだね。 この映画の主人公は、どんなに落ち込んでも、もうダメだというふうには思わない。そこで必ず助け船の光明があって、「オレはこんなことをやりたいんじゃない。もっとでかいことをやりたいんだ。そのためには生きなくちゃいけないんだ」と言って頑張るエネルギーを持っている。 |
次回19号は、引き続き、毛利元就の第二回です。
お楽しみに。
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