2005年12月06日

忠孝


 武士道にいう忠孝ということについては、僕はオリジナルに独特の考えをもっている。

 かれこれ15年ほども以前、この考えに思い当たって霧の晴れる思いがしたのだが、しかしもちろん、あくまでも個人的な思索と定義づけの域を出るものではない。

 それは、忠も孝も、それらはいずれも、自分という存在の根源であるとか、あるいは天であるとか、そうした本源的なものへつながっていくことではなかったか、と。
 そうした意識は、個としての人間を強く支えるとともに、あるいはそこにはある種のロマンティシズムも生まれるように、僕は感じている。




 再度、あくまで僕の個人的な見解というか感じ方に過ぎないということを断っておくが、
 僕の考えでは、

 孝というのは、血脈(正確には家系)を遙かにたどって、僕らの大元、根源につながっていくことであり、
 忠というのは、仕事や役目ということをたどって、天であるとか本源であるとか、あるいは使命のようなものにつながっていくことなのではないかと思っている。

 仮にそのつながる先を「大元」であるとか「本源」「根源」であるとか言っているが、あるいはそれを「天」と言っても、人によっては「神」と言っても、「全体」と言ってもいいのだろうと思う。

 そうした、仮に「全体」とか「天」につながっていくことで、人間は「個」として存在しつつも、自らの壮大な、悠久のバックボーンに無意識にも支えられることで、かえって、より強い「個」として存在できるのではないだろうか。

 その時、そうした「全体」であるとか「天」であるとかにつながっていく道筋には、3つの道があるのではないかと僕は思っている。

 ひとつは、血(厳密には血というより家系)をたどっていく道。
 これは最も確実だ。
 なぜなら、僕らが誰であれ無から生じるはずがない以上、生物学的にも、(養子等を考慮に入れて)家系的に考えても、この道をたどるなら間違いなく、必ず自らの存在の大元までつながるのだから。
 そしてこの道には、今日自らが存在する由来を父祖の存在にたどることによって、生命の悠久の流れを感じることも、あるいは何やら感謝の念を抱くこともできる。それは、自身を謙虚にすることにもつながる。

 もうひとつの道は、仕事をたどっていく道。
 およそ世にある仕事が何ほどか世のために存在し、行われる仕事であると考えたとき、それぞれの組織、団体は、それが為政者たる武家であれ、商家であれ、今日の会社であれ、公務員であれ、それらは全てそれぞれに何らかの社会的使命をもっている。
 その中にあって、職務上の系統をたどっていくことで、個はそうした「社会的使命」につながっていくことができる。

 このいずれの道をたどること、意識すること、あるいは尊重することも、それは「個」がただばらばらの砂粒のような「個」として存在する不安と不安定から「個」を救い、あるいは支えて、人間を人間にしておくものだと思う。

 3つあると言った道の3つ目の道とは、
 先のいずれの道でもなく、「天」であるとか「全体」、「本源」といった何ものかに、自分自身で直接につながっていくことだ。

 これは最も難しい道かもしれないが、しかし、たとえば職業をたどっていった先の社長であるとかは、社長のところで職業系統はゴールであり、社長自身は自らが「天」につながらねばならない。
 こうした意味で、世の経営者が一定の成功の後に最後には社会であるとか公共ということを考えはじめるのは、たとえ無意識であれ、さきの二つの道同様に、「個」を安定させるものなのではないかと思う。(しかも往々にしてそのような時点で彼の父母は世を去って久しい場合も多い)

 あるいは、今日のような時代、自分の職業上の系統をたどっていったところで、トップは必ずしも「天」であるとか「使命」であるとかにつながっていないかもしれないし、そんな気もさらさらないかもしれない。
 それが信じられなければ、職務系統を通じるよりも、自ら使命感をもってダイレクト接続を考えるべきかもしれない。^^;)

 もちろん、父母が健在であり、また優れて納得のいく組織の一員として働いていても、なお、これら二つの道だけではなく、自らダイレクト接続を意識してもいい。

 ただ、さきにこれは「最も難しい道」と言ったのは、第一の道における父母、祖父母や、第二の道における上司系統のような、現に形をとって存在するシンボルが無いからだ。

 さて、もはや言うまでもなく、
 第一の道とは「孝」のラインであり、第二の道とは「忠」のラインだ。

 この概念をわが国古来の国民感情の脈絡でとらえようと、あるいは単に大陸の儒の教えの注入に過ぎないとしても、つまり日本的感覚であると大陸的感覚であるとを問わずいずれにせよ、しかし、人間社会(心理)におけるその位置づけとは、こうしたものではなかったのかと僕は考えている。

 そこで第三の道としたダイレクトアクセスは実は、例えば諸外国のメジャー宗教におけるシステムに比定できる。
 ユダヤ、キリスト教であれイスラムであれ、個は個々に直接に「神」と対峙しているのだ。

 日本においては、個と直接対峙する絶対神は存在しなかったが、その「絶対」へは、第一の道や第二の道でアクセスすることができた。

 東西を問わず、人間のやってきたこととは何と辻褄の合うものだろうと、僕は勝手に感じ入っている ^^;)

 そして第二の道において、ラインの終端に位置する者は、第二の道においては自ら直接つながる必要があるが、しかし実はここにも最後の装置が用意されていたと僕は思う。
 それは、天皇の存在だ。

 さきにも、現実の形ある存在としてのシンボル無きがゆえにダイレクトアクセスは難しいと書いたが、実は天皇という存在は、現実に形をもって存在する天のシンボルそのもの、不敬な表現ではあるが、いわば最後の、そして最大のアクセスポイントだ(った)。

 かつて日本人は臣民であった。
 将軍も大名も親方も、どんな企業の社長も、どんな団体の長も、総理大臣であれ誰であれ、一見第二の道の終端に居るようでいて、しかし誰もみな臣民、本当の終端ではなく最後には必ずまだ天皇という終端があった。

 「臣 吉田茂」と言った吉田首相は、戦後の行政システムの頂点に在りながらも、しかし自らを終端と感じずにいることができただろう。
 (ついでに言えば、それは頂点にある者に謙虚を与えるものでもあるが。)

 こうした意味で、僕は「臣民」という概念が好きだし、往時を想い些かの憧憬も感じるのだが、しかし、考えてみれば、そのようなことを大手を振って言って回る必要などなく、今日においても依然として、自身を臣民と考えるかどうかは個人の自由であり、個人の内面の問題だ。


 さて、また武士道という観点では、
 こちらの方面については後日また別に述べようと思うが、そもそも武士たる者は実力稼業、さらにはメンタリティにおいてもある種の唯我独尊と傲岸不遜の意気が求められた。
 新渡戸稲造が指摘するように、あくまで結果論であったとしても、忠孝という概念は、こうした武士どもに恭謙ということを与えた面もあるだろう。


 上記のようなことを僕は個人的につらつら思うわけだけれど、
 そうして考えていると、僕は、そうしたものになにか悠久のロマンというものをも感じる。

 かつて司馬遼太郎は高杉晋作を評して、彼の忠義心はロマンティシズムだと言っていたが、(そして彼、高杉のロマンとは悠久性とは別のものだが)それもわかる気がする。(革命の雄とされつつも、高杉が主君と親に向けた忠孝の一筋さは、知る人も多いだろう)


 僕はこの先、二度とは上司を持たない可能性もあるが、
 そのとき僕は、自らが誰かにとっての良きアクセスポイントになりたいものと思っている。
 「わからなければ、とりあえずオレに乗ればいい」と言えるようでありたいと思っている。
 そのためには、自らの実力を徹底的に探求しつつも、より大なる何ものかの存在を常に意識していたい。

 いろいろ書いてきたが、ことによると、ただ「より大なる何ものかの存在を意識する」ということ自体が忠孝の原点である可能性もあるかもしれない。
 やはり例えばキリスト教社会における絶対神も、そうであるし。


 ※今回は、「忠孝」概念の「そもそも論」を考えているのであって、例えば徳川幕府が武士を手なずけ体制保守のために儒教を方便とした、といった議論とは(その議論の是非には関与せず)論点次元を別にしている。


posted by Shu UETA at 17:51| Comment(2) | TrackBack(0) | 武士道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
>それは、忠も孝も、それらはいずれも、自分という存在の根源であるとか、あるいは天であるとか、そうした本源的なものへつながっていくことではなかったか、と。

これ、とてもいいですね!
パズルのピースがぴたりとはまったような心地です。
忠をもって行うにせよ、孝をもって行うにせよ、それは行き方の違いで、ともに大きな何かに至る行為ではないか、というのは。

その人のいる環境によって行ける道は色々だと思うんです。忠あるいは孝の対象を得られない人というのもいるだろうし、忠孝に相当する言葉がない地域に生まれる人もいるでしょうが、彼らはまた別の手段を選ぶのでしょう。
経路や手段はともあれ、それぞれの術でもって尽くすことが根源に、いわば天に至ることになるのでしょうね。
至誠通天というのは案外そういう意味なのかもしれないなと思いました。
Posted by 暁 at 2005年12月06日 23:25
> 暁くん

 ことさら「個」ということがもてはやされる時代だけれど、「個」というものは、より大きな関係性の安定の中での(無意識下であれ)安心や自信をもっていてこそ、より「個」として強くあることができるのではないか、と思うんだよね。

 例えば、しっかりと家族に愛されて安心して育った子のほうが、大きくなって、世界、社会に怖れなく飛び込んで、立ち向かっていくことができると言われるように。

 一見逆説的であっても、しかし「全」と「個」の(複雑系的)関係とはそういうものではないかな、とも。
Posted by Shu at 2005年12月07日 19:00
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