2005年12月05日

正直と誠実


 武士道というカテゴリを用意していながら、ふさわしい記事をあまり書いていなかったので、少しずつ、思うところを書いていこうと思う。

 さて、
 武士道では「誠」ということがいわれる。

 今日的には、「正直」と「誠実」ということがいわれる。
 (もちろん「誠」とは、「正直」と「誠実」のみで構成される概念ではなく、神道的な原日本人的感覚まで併せてさらに広い価値観を含んでいるけれど。「誠」については後日別記事にて。)

 「正直」とは、言葉(及び認識)を現実に合わせること、
 「誠実」とは、現実(あるいは行動)を言葉に合わせること、と僕はとらえているが、
 成る程これらのことが武士の間で重視されたのは至って当然のこと、また武士ならぬ今日のわれわれの間においても、およそ勝負事に関わる人々や、共同で仕事をしている人々(ほとんどだろうけど)にとっては、こうした「信用」「信頼感」というものは非常に大切であるはずだ。



 もう少し言い直すと、
 「正直」というのは、現実を偽らずに言葉にすることであり、さらに言えば、現実をゆがめずに現実どおり正しく認識することまでを僕は言いたい。

 「誠実」というのは、自らの言葉に違わずに現実にすることだ。
 ここでは実は、「言葉を違えずに『行動する』」ではなく、「言葉を違えずに『現実にする』」ということにポイントがある。
 なぜなら、誠実に行動したけれど失敗しました、できませんでした、ということが通るならば、共同作業において、まして武士の与る戦闘のような行為においては全く信頼に足らないからだ。

 いま最後に少し触れたとおり、これらのことは、戦闘行動をともにする往古の武士の間では死活的に重要な問題であり、それは今日における人間の共同作業においても依然として重要な、個々の人物に問われる性質でありあるいは資質というべきかもしれない。

 さて、「正直」というと、単にウソをつかない、とか「正直者」などという言葉でイメージされるが、さきに付言したとおり、戦う者の間で問われるべきは、そうした生活道徳に敷衍できる要素だけではなく、さらに、現実を正しく現実的に見てとる能力までを含めたい。

 もちろん、共に戦うにおいて「虚言」は由々しき問題であるから、単にウソをつかないということも肝心ではある。
 見たものを見たと言わず、見なかったものを見たということでは困る。

 しかし、見たものを見たと言っていても、その「見たもの」が正しく現実を見て取っているのかというところが、今度は「能力」の問題として浮上してくる。
 戦場における武士の眼力というものは、とにかく「現実を現実として見て、現実の上でものを考える」ということに尽きる。
 現実を過剰に評価するのも、過小に見てとるのも、あるいは希望的観測につられるのも、恐怖につられるのも、「現実を現実どおりに見る」ことにはならない。

 僕がしばしば引用する菅野覚明氏は、著書「よみがえる武士道」で、甲陽軍鑑等を引き合いにして次のように述べている。

  「軍鑑」は、正しい認識や判断を動揺させる心の揺れを、主君や仲間を裏切る心と同じく、「ふたごころ」の名で呼んでいる。「ふたごころ」とは、心に嘘偽りがあることをいう。事実のあるがままを歪めることは、自らを偽ることである。しかしそれは、他に対してあるがままを偽り飾ることと、虚偽である点では同一である。というよりも、事実のあるがままを正しく受けとめえない無分別こそが、人を騙したり、あるいは欺かれたりする浮薄な心を生み出すもとだというのである。

 武士にとって、判断の是非や人物の力量が端的にあらわになるのは合戦の場である。そこでは、判定は生きるか死ぬかという、冷酷な事実として示される。こういう後のない場に身を置くとき、自己の運命を託すに足りる最も確実な足がかりは、動かすことのできない「事実」にしかない。事実を正しく受けとめる「分別」、事実を曲げることなく振る舞う「有りのまま」である。

 この世界の中で真に頼むに値するものは、有るものは有る、無いものは無いとする精神だけだ。これはまた、人間世界のみならず、神や仏にも必ずや通じるものなのだ。一は一であるということを決して曲げないところこそ、天地宇宙を通じて唯一つ確実な拠り所である。相手が神であれ仏であれ、己れの頼むべき所はそこにしかない。これこそが、武士の発見した「哲学」だったのである。




 「誠実」というのは、命を預け合うという戦場においてはいっそう現実的な要求になる。
 もちろんそれは武士や軍人の話だが、しかし命まで預けずとも、およそどのようなビジネスであれ、共同で何ごとかを為そうという行為においてはきわめて重要な問題だろう。

 社会に出ると言い訳は通用しない、ということを痛感したことのある人は多いだろう。
 つまり、結果が全て、と。
 先に言及した「言葉を違えず『行動する』」ではなく『現実にする』というのはそのことだ。

 約束したことをまずは行動に移す、というのはむろん第一のステップであろうし、それ自体肝心なことではあろうが、それは道徳的満足のレベルの話であって、戦いやビジネスの場で求められるのは、その通り努力した云々よりも、その結果を出したかどうかであって、極論すれば、全く行動に移す努力が無かろうとも結果が出れば(作戦上は)善し、なのだ。

 全体の構想、作戦は、数々の作戦、行為から組み立てられており、さらにそれぞれはタイミング上の関係ももっている。それら個々の行動がどこかで破綻すればその影響は他にも波及するのであって、最悪の場合には全体構想自体を暗礁に乗せることもある。
 いったん「応」と答えたからには、何があろうと約定を果たさないことには、相手、他者を見殺しにすることもある。

 そもそも武士の誠であるとか、ビジネスマンの信用ということは、こうした厳しい現実の問題なのであって、その「結果を出す」ことが求められるのが、いわばプロフェッショナルというものだ。

 単なる道徳としての「約束は守りましょう」というものは、言い訳が許されるものだ。
 約束を破るつもりはなかったけれど○○が△△だったので…とか、できる予定だったんだけど風邪を引きまして…とか、間に合うはずだったんだけど電車が遅れまして…、といったように。
 道徳なのだから、約束を守ろうとした姿勢があれば、基本的にはokと言えないこともない。
 だが、戦いやビジネスでは、そういうわけにはいかない。(一時的に大きな問題につながらないようなことであっても、そうして信頼感をなくしていけば、大きな問題に与ること自体がなくなっていくだろう ^^;)

 しかし、戦いはもちろんのこと、ビジネスにおいても、こちらの円滑な行動を妨げるような妨害、障害、不意の出来事というのは次々と起こってくるのであって、往古の名のある武士であれ、今日やり手のビジネスマンであれ、彼らはそれらを乗り越え乗り越えして信用を築いているはずだ。
 そうした障害や不測事態というものは小さなものから大きなものまで、時々によって千差万別であって、その対処の在り方というのも一定ではない。したがって、長い年月の間、信頼を損なわずにやってきているということは、それ自体がその人物の幅広い総合的な「実力」であり「危機管理能力」「危機対処能力」を証明しているとも言えるのだ。
 中には、避けようも対処のしようもない本当にどうしようもないことというのはある。しかし、一定年月のスパンで見たときに、人物の信頼感というのはできてくるものだ。

 ビジネスやスポーツでも同様だろうが、わかりやすいところで例えば戦陣、戦場においては、仲間として共に戦える、戦えないということが言われる。
 これはまさに戦場で信頼に足るかどうか、命を預け得るかどうか、ということだが、そう考えれば、これが単に道徳的な約束を守る人云々という話ではなく、前述したようなトータルな実力としての人間評価だということはイメージできるだろう。
 そこには、約束を守ることはもとより、困難においての意志力や知恵、応用力といったことまでさまざまが渾沌として評価されている。

 これらは、「言葉を現実に」してきた実績の積み重ねの賜ものなのだ。

 そして、ともに戦えない、と評されることほどの名折れは、なかなかないだろう。
 だから、いかにやむを得ない場合があろうとも、しかし約を違えた場合に武士たる者は実に痛恨の極みを感じずにはいられないものだろう。

 いま仮に、自分の友人知人たちを思い浮かべて、「ともに戦えるかどうか」ということを想像してみてほしい。(いや、失礼な話ではあるが)
 (この時点では自分のことはひとまず棚に上げて ^^;)
 そして、誰ならばなぜ信頼に足ると感じ、誰ならばなぜ不安であるのか、ということを考えてみる。
 それから、最後にそれを土台に自らを振り返ってみよう。(他人の振りみて我が振りなおせ? ^^;)
 我が身を振り返り、いろいろと考えさせられる。

 僕はある程度文字通りそういう類の仕事に就いていたことがあるが、実際多く一般的には、戦えるだの命を預けるだのというのは非現実的に過ぎる大仰な謂いかもしれない。けれど、それはどのような仕事上のことであれ同じであって、勝敗や生死でなかろうとも、どんなプロジェクトであれ、信頼に応えるということ裏切るということ、恥をかかせることやかくこと、メンツをつぶすことつぶされること、煮え湯を飲まされること飲ませること、そしてなにより仕事の成否ということでは同じことだと思う。
 こうしたことは、社会人になればどこかの時点で痛感するのではないだろうか。

 前掲書には、こうもある。

  武士の世界で「頼む」というのは、己れの命をあずけることである。確実な裏付けもなく「ことうけのみ」よいような、それこそ「うろんなる」者に命はあずけられぬ。




 ちょっとした付言だけれども、

(1)「結果が全て」というのは、あくまでも作戦や仕事の成否における基準であって、「結果とプロセスではどちらが大事か」などという問いに一律に答えるものではない。
 これは問の次元や背景の問題であって、
 仕事の成否ということや、そうした職業人として、プロフェッショナルとしての信用ということでは、間違いなく「結果を出すこと」が求められる。

 が、例えば次のような場合には当然その限りではない。
 一例としてそれは組織や人の育成というプロセスにおいて、そこでは長期的にシステムをよりよいものにしていく(結果的に長期的に安定して成功の確率を高める)ためには、結果オーライではなく、プロセスを厳しく問う必要がある。(例えば過去記事「バレンタイン流(2)」の「5 プロセスと姿勢の重視」で紹介したようなことだ)

 あるいはまた、人としての感情、人柄における問題として、結果が伴わずとも頑張る姿勢や、約束を守ろうとする態度そのものは、例え不幸にして結果が伴わなくとも、感謝や感激、感動の対象になることだってある。

(2)相手が信頼に足るかどうかという観点は誰しもそれぞれに感じ得るだろうけれども、だからといって、自分が信頼できる人間とだけ常に仕事が一緒にできるほど幸運な立場にいる人は少ない。
 そこでは、相手が信頼できない場合には、それを織り込んで自らのやりようを考えることになる。
 失敗した後で、彼がへまをしたからだとか、彼が役割を果たさなかったからだ等々といった具合に「言い訳」するのは、やはりプロとしては「言い訳」に過ぎないわけで、前述したような「現実を言葉に合わせ」続けてきた信頼に足る腕利き者というのは、そういう障害をも克服し続けてきた者だ。

(3)「共に戦うに足る」かどうかは、もちろん今日テーマとした「誠」「正直」「誠実」ということだけで感じるものではない。実際にはこれに加えて、自分の「戦い方」の個性との相性(例えば僕であれば、着手実行の迅速や、機動力、そして機動力を支える耐久力などといった資質が大いに好みだ、といったふうに)や、志といった面での触れ合い、意気に感じる点の有無など、さまざまが溶けあっているものだ。
 しかし、目的が死活的であればあるほど、心情はどうあれ、今回テーマとしたような信頼感は抜きにはできないだろうとは思う。

(4)最後に、「言葉を現実に」というのは、誰とともに行うのでもない、自分自身の生活や人生についても大切なことだろうと思う。


posted by Shu UETA at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 武士道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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