2008年06月18日

戦略戦術的スポーツ観戦のススメ



 戦略/戦術といった分野で研鑽している人には、
 ふと思うと、意外なことに、スポーツにあまり関心のない人が多いような気がする。

 それはおそらくは、スポーツ愛好という多分に娯楽的な性質が、あるいは勤勉というライフタイルとはなかなか反りが合わない場合が多いからかもしれない。

 スポーツは自身行うにも、観戦するにも、莫大な時間を消費するものだし。

 さてしかし、この程のサッカーEURO2008などを夜更かししつつ楽しみながら、その美しいまでにハイレベルな戦いに固唾を呑むにつけ、
 僕は、戦略眼戦術眼というものを研鑽している人にこそ、スポーツ観戦ということをオススメしたいという思いがつのる。
 (この際、自ら身を投じて楽しむほうは措こう、それで戦略だの戦術だのというレベルに至るには、投入すべき時間資源のトータル量が半端ではないだろうから。)

 といっても、そうした研鑽が学究という次元で行われる場合には、必ずしもこれがそう有意義とも言いきれないかもしれない(かえって害がある場合もあるかもしれない。)

 しかし、一方、自らリアルにそうしたものを運用しなければならない立場の人には、スポーツ観戦にはきわめて意義があるように思う。

 その意義とは、まず文字通りに戦略眼、戦術眼を養うということ。

 よりブレイクダウンして言えば、一般的な戦理というものを、個々の特殊なケースに適用する能力を身につけるということ。

 そして、結果に対する後付けの論ではなく、状況推移の流れの中、限られた時間で予測と対策を出力する訓練ということ。



 戦理というものは、理屈でそれを理解することはきわめて容易だ。

 「戦力の集中」ということの意味であり、その意義というものを理解できないひとはいないだろう。
 だとすれば、これは単にそうした用語を知っているかどうかという問題に過ぎない。

 ところが、戦理は、それを実際に個々の状況に適用するのが難しいのだ。

 戦力の集中が大切なのは誰でもわかる。
 そして、古今の戦史などを紐解いて、集中の原則にそっていない作戦を簡単に「悪い例」的に解説する。

 しかしおよそ戦史に登場するような、どんな無能に描かれる指揮官であっても、戦力の集中の意義を知らぬ者はなかなかいなかっただろう。
 多くはプロだ。むしろわれわれよりはるかに肌身で実感をもって理解していただろう。

 あるいは悪いものとしてこれも多く人の知る「戦力の逐次投入」。
 戦力の逐次投入が一般論として良くないことを、旧帝国陸海軍の秀才たちが、知らぬわけがない。
 ところが、彼らは幾度となくそうした悪例を戦史に残している。

 なぜか?

 ひとつは、戦理の適用センスの問題だ。
 一般論を個々の状況に適用するというのは、難しいのだ。

 巷にあふれる孫子であるとか戦争論を扱った本を読んで、そうした戦場の話を、すぐに自分の職場、自分の仕事内容に適用できるだろうか?
 陸戦の教訓を、ビジネスの営業活動にすぐさま適用できるだろうか?
 (※もちろん適用はできるだろう。ただ、簡単ではないということ。)

 それに戦理というものは、ことわざにも似て、全く逆のことを言っているようなものが同時に存在する。ゆえに、その運用センスというものが問われるわけだ。

 もうひとつには、そんな一般的戦理は互いに百も承知の中で、戦いというのは戦われているのであって、相手に原理を踏み外させるべくあの手この手を尽くしている中でのこと、というのがあるだろう。

 攻撃側が戦力を集中するならば、それを受ける側は、その面に戦力を集中するだろう。
 サッカーのゴール前で人数をかければ、敵も人数をかけて守る。

 相手の薄いところに、こちらの戦力を集中して指向する。そう言えばたしかに話は簡単。
 しかし戦いはスタティックなものではない。
 こちらが厚く攻撃するなら、そこはすぐさま敵も厚くなる。

 僕は、身内びいきでなく、航空自衛隊の戦いの原則は他に抜きん出て秀逸だと思っているが、そのひとつには、「機動と集中の原則」というものがある。

 なぜ機動と集中がセットになっているか?
 機動力がないと、戦力の集中ができないだろうから?

 それもあるだろう。

 しかし実際に全ての航空自衛官が理解しているかどうかはともかく、この原則は、もう一段深いことを言っている。

 戦理においては、敵の分散をこちらの集中で撃ちたいわけだが、その、敵の分散を生むものは何か?
 それはこちらの分散なのだ。

 こちらが分散することで敵は分散し、その分散を、こちらは集中で叩く。
 これはまさに機動力の話以外の何ものでもない。

 サッカーがわかる人は思い浮かべてほしい。
 ボールを持った攻撃側が分散して攻め上がるから、敵ディフェンダーはそれらに対応すべく間隔を広げる(広がってしまう)わけだ。

 もし両サイドや中央外よりに人がなく、中央のみを攻めあがれば、敵ゴール前なんてのはちょっとした人ゴミで、ドサクサ以外に仕事のしようがない。(もちろんこれはカウンターのような場合は別)

 と話してくれば、これはもう誰でも理解できる。
 しかし、ではこれを外交戦略上どう使うのか、営業には?恋愛には?勉強には?あるいは海戦でも、野球でも、テニスでも?

 指揮官の陣頭指揮、これに感銘を受けたとしよう。
 では、あなたの仕事で陣頭とはどこなのか?
 部下の営業先に一緒について行けばそれが陣頭指揮なのか?しかし中隊長や連隊長が前線で兵と一緒に銃を構えるのが正しい陣頭指揮のありかたか?
 こんなことでさえ、陸戦とビジネスではフィールドとミッションの態様に大きな差がある。

 旧帝国陸海軍のしばしば酷評される作戦運用ぶりは、戦闘という同じフィールドにあってさえ、頭ではわかっている原則の適用がいかに難しいかということを示している。

 まして、フィールドもルールもまるで違うところに、どのように適用するのか。
 それが、難しいのだ。


 一般原則を、個々の事象に適用すること。(その逆も)
 これはどのような分野でも、きわめて重要で、しかし難度も高い。
 センスも問われる。

 抽象と現象の間、ここをどれだけ自由に往来できるか。
 その自由を手に入れたなら、僕らは天才になれる。


 さて、天才の領域はともかくとしても、そして話を戦理というフィールドにもどして、
 そこで、そうした訓練に、実はスポーツ観戦(プロのレベル高いもの)は、きわめて有意義ではないかと思うわけだ。

 戦力の集中でもいい、機動と集中でも、奇襲でも、陽動でも、間接アプローチでも、正をもって合し奇をもって勝つでもいい、優勝劣敗でもいい、
 そうしたものを、あるいはそれらを組み合わせて、
 いま、このルールで戦われるこのフィールドのこの試合、このチームに、あなたならどうせよというのか?

 これは、非常に勉強になると僕は思ってる。

 古今戦争に天才と言われた人物、義経でも信長でも信玄でも謙信でも、ハンニバルでもフリードリッヒでもナポレオンでも、
 彼らは、仮に今この世に現れて、はじめてサッカーのルールをきいても、しばらく試合を見れば、きっとすごいことを言うだろうと思う。
 彼らは、原理を現実の今この場面に適用する達人だ。

 戦力を集中したほうがいいことなんて、誰だってわかる。
 そして戦史を見て、このときこうしたらよかったのにだなんて、誰だって言える。
 研鑽を机上の論で終わらせないためには、それを適用するプロセスを鍛えるべきだろう。

 もちろんそれは自分の仕事などで実地に日々行うことではある。
 しかし、練習と割り切れないのはもちろんだし ^^;)、また、訓練のサンプル量としては十分とはいえないだろう。

 新聞やネットを通じて、行政であるとか外交、企業経営について、自ら考えてみるのもよい訓練になるだろう。しかしこの場合の欠点は、おそらくはアクセス可能な情報がきわめて少ないだろうということだ。(外交なんて特にそうだろう。)
 戦史における指揮官を簡単に批判できるのも、おそらく、こちらにはリアルな情報が少ないことによるだろう面も否めない。

 と、こ、ろ、が、

 野球を、サッカーを観るには、相当量の必要情報にアクセス可能だ。

 そして試合数の多いことといったら。

 また、実際の戦争やビジネスではありえないような均質性とレギュレーションの厳密さ。
 前者は、その分いっそう勝敗に与える戦略/戦術のウェイトが大きいということを、後者は、比較考量等が容易であることにつながる。

 他にも簡単に観戦できるものはいくらでもある。
 アメフト、ラグビー、テニス、ゴルフ、バレーボール、マラソン、駅伝…
 間もなく五輪も始まる。


 中でも、僕はサッカーをいちばんにオススメする。
 (単に趣味としてなら僕がプロ野球派だというのはご存知のとおり)

 サッカーというのは、現実世界に非常によく似ている。

 まず、指揮官の立ち位置から見た、蓋然性の積み上げということ。

 監督の立場でできることは、平素選手を訓練することと、どのような戦い方をするかということを理解させること、そして戦法を編み出してそのパターンを選手に浸透させる、試合においては布陣を通じてシステムをつくること、あるいは試合中のシステム変更、選手交代。
 あとはフィールドにいる選手にゆだねられる。

 こうした意味で、監督はきわめて戦略指揮官的だということができる。
 個々の戦術を駆使するのは選手だ。

 選手一人一人を一つの部隊指揮官とみなすこともできるし、あるいはMFにはよりそうした戦術指揮官的な面もあるかもしれない。

 そして、それら戦略指揮官であれ戦術部隊指揮官であれ、
 こうすれば勝てるはずという、「良いパターン(戦法)」を積み上げるのだが、運の要素も多分に影響する。
 だから、確率を争う勝負ともいえる。

 サイコロを振って6が出る確率は1/6だが、その確率を1/5にも1/4にも高めていくべく戦法を駆使する。戦法とはそういうものだ。
 こちらが素晴らしいサッカーを展開して、あたかも6面のうち5面に6があるようなサイコロを振っていても、6が出るとは限らない。
 相手が拙くて、6面のうち6がひとつしかないサイコロを振っていても、それでも6を出してくることはある。
 そうした中で、それでも、そのサイコロの確率を上げていくのが、善く戦うということだ。

 さらにサッカーは、W杯やEUROのような国際マッチとなると、単に理性に徹した戦略戦術だけではなく、国民性ということまでが多分に影響する競技だ。
 例えば、勝っていようとも、その点を守るために後ろにひいて固く戦うなどということは、オランダのようなチームには許されないことだ。

 また、サッカーでは、勝利であれ敗北であれ、その原因と推定できるものが、遠因にはじまり直接の失敗まで、戦略レベル、戦術レベル、作戦レベル、個人レベル、環境条件、etc…etc…、きわめてさまざまな次元であらわれ、混沌としている。
 あたかも我が国のさきの大戦の敗因を云々する場合と全く同じ様相を呈する。
 これも、現実の戦争であり、社会での成功失敗と非常に似ている。


 野球については、サッカーにくらべやや難があるのは、投手vs打者という基本構図は揺らがないので、試合における戦術のウェートがサッカーほどに高くはないということ。
 もちろん、それでも十分に練習台にできるが。

 アメフトは、最も戦略的、最も戦術的なスポーツで、その奥深さは底が知れないほどだが、最大の難点が、TV観戦の場合に、全容を見渡すことができないことだ。
 この競技では、各ポジションが持ち場持ち場で、きわめて複雑なプレーを行って、選択されたコール(作戦)を組み上げているのだが、それらがカメラの枠内にほとんど写らない。
 (しかし…知ってしまうとアメフトの魅力からは逃れられない。こんなに知的に高度なスポーツを僕は他に知らない。アメリカ人の戦略性、戦術性は、アメフトで涵養されているのではないかと本気で思う ^^;) ちなみに欧州のサッカーチームの監督には、アメフトを研究しているひとも多いという)

 テニスのような個人戦になると、チームスポーツ以上に戦理の適用難易度があがるので、上級コースだろう。(それに、上記3種目とちがって、プレー経験がないと難しいとも思われる)


 随分とエラそうなことを書いてきたけれど、もちろん僕こそまだまだ研鑽の真っ最中。
 ご教授垂れることなんて到底できず、要は、仲間を増やしたい、って程度の話 ^^;)


 冒頭述べたとおり、目下はEURO2008が開催中。
 4年に1度しかない機会でもある。

 ぜひ 自分の戦略眼、戦術眼を試して楽しんでみてほしい。
 (異なるフィールドに一般論を適用することがいかに難しいか、慣れない人は、一体何をどう考えればよいのか、この大会期間中には手がかりもつかめないかもしれない。しかしそれもよい経験。)

 なにせハイレベルな欧州選手権、選手個々の美技はもちろん見ているだけで楽しいが、それを支えるチームの戦略、戦術というもの、それがアジャストしているときの美しさというのも、たまらないものがある。

 実務家としての戦略戦術研鑽が必要なひとには、十分に価値ある時間の投資だと思う。

 wowwow加入してなくても、何試合かがTBSで放送されてるのでチェックを。

 ちなみに僕はオランダ、ポルトガルのチームが好きなんだけど、
 今回大会を見ていて、オランダというのは、実にシーパワー的な戦い方をするなー、ということを考えている。ポジショニングの妙。
 単に歴史的国民性でいうことはできないだろうから、それとは関係ないんだろうけど。

 僕がどういう意味で言っているのか、気になるひとはぜひオランダ戦を観てみてください。 ^^) (オランダは本戦も出るので)
posted by Shu UETA at 01:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦略戦術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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